めんどくさいから食べてしまえ『グリーン・インフェルノ』

黄色のオープニングクレジットが,アマゾンの緑に溶け込んでいくエフェクトに『プレデター』(1987)の光学迷彩を思い起こし,数秒プレデターシリーズに思いを馳せてしまった.単なる人殺しではなく「狩り」をしていると分かる人体破壊の数々.プレデターが面白かったのは行動に「文明」を感じさせてくれるところだった.特に2のラストで示される「敬意」には目から鱗だ.こちらから見れば生き残るための,身の安全を確保するためだけの異形の生物との戦いだったものが,あちらから見れば違った側面のある戦いだったのだ.そう理解させてもらえてはじめて思考が広がる.この世界は,一筋縄じゃいかないのだ.


グリーン・インフェルノ』感想

イーライ・ロス監督作品.エコロジー学生運動家たちが,アマゾンの奥地で食人の奇習を持つヤハ族に捕らえられてあれよあれよと食べられていく映画.最高に面白かった.とにかく解放感に満たされた.こと映画において「食事」は一種の接続詞的なもので,食事を通じて会話であったり感情であったりを描くということが基本にあるように思うけれど,この映画は,もう何の記号性もなく,ただただ「食事」を見せてくれる.食べているのが人というだけで他に派生することが何もなく,1人また1人と順番が回ってくるだけだ.その順番にだってフラグじみたものを感じさせない.久しぶり良い意味で開いた口が塞がらず,純度の高さに唸った.


「考えるな、行動しろ」と言っていたけれど,体の上下からさまざまなモノを出すわ出すわで,やれ重力に逆らわなかったり,やれ綺麗どころから漏れ出たり,いちいち気を利かせてくれて面白かった.ストレス発散を目的に自慰行為を働くキャラクターを自分映画史上はじめて観測.ヤハ族による「食人」と同様に登場人物たちの行動は純粋に行動として描かれる.その反応として描かれるのも生理的な嫌悪感か愉快さのみ.あちらの族長の片目がつぶれていて,まず食すのが目玉だとか,こちらの主人公が途中から「泣く」しかやってないとか,とにかく行動が単純明快だ.


そうして登場人物を象るのは「行動のみ」としたうえで,かかる「世界観」へはそれをよしとしない.個人主義の行動が跋扈しているから世界は単純にはならないのだ.そのことを不条理に偏ることなく背景として敷いたバランス感覚が実に見事と思う.善意とは?偽善とは?悪意?巨悪?そういった落とし穴的クエスチョンに付き合わないクレバーさがある.エンドロール中に主人公のもとへ突然かかってくる電話.あの電話にある「めんどくささ」こそが,この世界の表情なのだ.『グリーン・インフェルノ』を見てあらためて思った.ボクは映画に携わっている人間を見るのが好きだ.ふだんの生活では見ることのできない人間がスクリーンにはたくさんいる.こんなにも人間を楽しませてくれるものに今のところは巡り会っていない.もちろん,好きだからって,食べはしないけども.おわり