今日もまた後半部分に賛成する『セブン』

デヴィッド・フィンチャー監督作品で一番好きなのでたまに見ている.モーガン・フリーマンブラッド・ピットって組み合わせがイイ.世の中の映画スター全員から組み合わせを自由に選んでくださいっていわれてもなかなか思い付かない.なんてったって,ブラピが脇でモーガン・フリーマンが主役なんだもん.ほんとこの映画すごいと思う.


以上で終わりにするくらいならTwitterで済ませるけど,この映画について何か書きたいと思ったので今スマホをいじいじしている.自分はこの映画の何に惹かれ,どう楽しんだのか.整理しながら書いてみようと思う.


まず,ラストの展開の衝撃度ゆえにこの映画はしばしばサマセット,ミルズ,ジョン・ドゥの3人の思考・思想といった側面で語られがちだ.けれど,そもそもこの3人を支えている映画の面白さとは「世界観」にあると思うのだ.ファーストシーン,サマセットは同僚からこんな一言を浴びせられる.


「アンタがやめてくれて清々するよ。なーにが子どもは見たのか?だ。けっ。キレたやつが銃ぶっ放しただけだろーが。」


こういうひとのいる世界観.自分の怠慢を認めたくないから真面目にやるひとを馬鹿扱いするひと.直接本人に言うってのはさすがにアレかもだけど,心の中でそういう思いを抱くひとって一定数いると思う.自分の無能さを棚に上げて,緻密に真剣に確実に取り組んでいる人間をあざけるひとたち.


この映画には,そういうひとたちばかり出てくる.怠惰の現場に赴くSWATは現場を荒らすなよ!のミルズの一言を聞くや,ハイハイわかりましたよといった態度に様変わり.ヘリコプター内からのサマセット!指示を出せ!の一言には「またあの偏屈おやじが意味不明な行動取りやがるから混乱だよ!まったく迷惑な野郎だ!」っていうニュアンスが込められている.


「無関心」ときくと,そのこと自体に意識が向いていない,興味を持っていない,まったく知りもしないというようなことに思えるけど,実際はそうではなくて,無関心なひとたちは「何か起きてることは知ってるけど本質的に自分には関係ない」と思っている.つまり,当事者意識がない/拒絶している.殺人の真相や背景の存在自体は感じていながら自らの目でそれを見つけようとはしない.仮に見つけたとしても自分が英雄視されるわけではないし,そんな骨を折る行為はもはやダサいとすら感じている.そうやって「無関心を決め込むひと」で満たされてしまった世界観こそが魅力的な映画なのだ.


次にひとつ好きなシーンを.マイクをつけるためにバスルームで胸毛剃りをしている途中ミルズが「実は……」と口にする.あの続きにはどんな言葉があったのか?その少し前になるがミルズはこんなことを言っていた.


「毎晩こんなに遅いと女房が勘繰るぜまったく」


人が「冗談」を口にするときは主に二つのパターンがある.その場を別の方向へ持っていきたい意図があったり,そうだったらいいのになという願望が漏れ出たりするの二つだ.前者は根っからの冗談好きだったり,そのときの都合が悪い場合がほとんどだ.では後者はどうか.その先に抱えている思いがあり,まず冗談めかした発言をすることでその真意への入り口を提示しているのだ.言葉はなかったが,あのときのミルズの心境はこうだ.−−−このまま歩を進めて大丈夫なのだろうか.もう後戻りできなくなってしまうのでは.さまざまな思いが邪魔をして結局ミルズは行動を制限することができない.そうして,このやり取りは,ラストの展開へと拍車をかける.


自分は他の人間とは違う.迎合してまで生きるなんてまっぴらだ.一度きりの人生,生きたいように生きるんだ.いつの時代も多くの賛同を得るものだと思うが,ジョン・ドゥというネーミングには名無しの権兵衛の意があり,そしてそれは単なる偽名にあらず,前述の「人生観」を批判するものだ.いくら周囲が無関心だからといって,そうではない自分を特別視したり(ジョン・ドゥ),最終的に自分は大丈夫だろうと楽観視したり(ミルズ),無関心なひとたちに対して無関心であろうと考える(サマセット)ことは愚かだと警告する.名無し権兵衛,ひとは誰しもがジョン・ドゥになりうるのだ.だからこそ,誰しもがそうであるならばと逆説的にサマセットは言う.「この世界は戦う価値がある」と.またそのうち見ようと思う.おわり