とりあえずの考えをジにしてみる「1Q84 BOOK1」

「映画館で映画を観る」ということの「理由」が、そうでないひとを説得できなくなってどれくらい経つだろう。やれ料金が高いだの、やれ自宅のほうが落ち着くだの、挙げ句にはすぐにレンタルが始まるだの、、、。そうでないひとが言う意見は簡単に聞こえるものの、困ったことにこれが筋の通った強固なもので、どう贔屓目に見たとしても、映画館に行くことを勧める意見よりも断ッ然説得力を持ってしまったのだ。ぼく自身、何故?と問われれば、お決まりの「雰囲気を楽しむ」というあれに頼ってみたり、映画は映画館で上映するためにつくられた、などといって柄にもなく情に訴えてみたりするかもしれない。けど実際はしない。そんなことを熱く語っても他人が望んで勝ち得た価値観を揺るがすことはできないと知っているし、そんなこと不可能、いや不必要だと心のどこかで思ってしまっているから。

もちろん全人類が映画を観るべき、だなんて思ってないし、思ったこともない。そんな世界ではおそらく面白い作品は生まれない。ぼくがこの上なく嫌だと感じたのは、これだけ映画館に足を運んでいるというのに「映画は映画館で」ということに何の意見も持っていないことに気付いたからだ。別に理由を持つべきでもないかもしれないけど、そのことに気付いたとき、ぼくは純粋に「持ちたい」「欲しい」と思ってしまった。ただ、漠然と「観たい」という感情に正直になるのもいい。映画通ぶってそうでないひとに幅を利かせる「映画痛」になるのもいい。けれど「そのこと」に理由だけは持っていたいと望んでしまったのだ。

日本語特有の文字あそびが心憎い『1Q84』。その1巻だけを読んで、こんなアフォなことを書いてるのはたぶんぼくだけだと思うけど、この本ってばとにかく面白かったのだ。ここ2週間は何をするにしても青豆や天吾、ふかえりやあゆみのことが、頭から離れないくらいどうしようもなく没頭してしまった。ぼくは自分自身をミーハーという言葉は嫌いなので「新しいもの好き」だと自覚していて、映画館に通いつめるのもそのせいだと思っていた。今このタイミングで本書を読んでいるのだって3巻がもうすぐあれだからであります。しかし、ちがう。ちょっとだけちがったみたいだ。ぼくは「新しいもの好き」じゃなく「今が好き」もしくは「今を好きでいたい」みたいだ。

自分が生まれる以前の作品、つまり1985年より前に生まれた作品にぼくはあまり惹かれない。とはいえ避けているわけではないので、たまに身構えながら観てみる。そのほとんどの機会にたまらない思いをさせてもらうのだけど、それでもむさぼるように観ようとは思わない。時にそれまで持っていた価値観がばっさり切り捨てられ、ごっそり引っ込抜かれてしまうのが嫌だからだ。本書で言うところの「書き換えられた」ような感覚を覚えてしまい、その日からいろんなものがちょっとだけ暗くなったりちょっとだけ明るくなったりしてしまう。このことにぼくは不慣れなのだ。ただ単に無い頭に詰め込みすぎてとうとうパンクしてしまったのか。それとも元々のイカレポンチなのか。こんな脈絡のないことを書いてる時点で、どちらも正解と認めざるを得ない。

いずれにせよ、ぼくはまだそのような場所をうまく行き来できないでいる。歪に流れる時間にすっかり飲み込まれてしまったようだ。でも、もう少しだけ身を委ね自分を誤魔化してみる。この翻弄は何故だか素晴らしく心地がいいから。(★★★★★)