「余命1ヶ月の花嫁」

話題騒然の映画を鑑賞。感動なんてできるわけがないふざけた映画だった。自分とほぼ同年代で逝ってしまった長島千恵さんの冥福は祈るけど、映画の出来とは別問題。「実話だからストーリーは…」という意見をたまに耳にするが、アホか?と思う。映画にそんなルールはない。だいたい映画には抑えどころはあってもルールなんぞ存在しない。ひとつ作るなら「難病モノ」は禁止にしてくれ。

あまりに美化された人間たちと、苦しみを描かない物語については「日本語にはこの気持ちを表現できる言葉がありません」とだけ記しておく。「死」を記号化して泣かせようとする映画は滅ぶべき。そして泣きじゃくってる若者はもっと「人間」を学ぶべき。泣きじゃくってる大人は…お疲れさまです。こんな場末のブログであーだこーだ叫んでも無意味なのは重々承知。だけど、罵詈雑言しか書く気になれないほど不快な思いをさせられたのだ。

この映画で感動した方の意見で多いのが「榮倉奈々が癌でありながら気丈に振る舞う姿に感動」という文章。文章能力では他人のこと言えないが、この「気丈な振る舞い」とはどの場面なのか思い返してみる。多分、瑛太に癌を告白する場面と瑛太に切り取られた乳房を見せる場面なんだろう。告白場面は演技がダメで台詞を読み上げてるようにしか見えないのでアウト。乳房場面はその直前に自分で見て泣くシーンがある。あそこで観客にも見せておいて、榮倉奈々と共にショックを与え感情移入を誘っていれば、瑛太に「見せる」ときの気丈さが引き立つんじゃないか?だいたい瑛太から遠ざかっているのに観客にはハッキリ見せるってのはおかしい。

イラッときたのは「焼き肉場面」と「共食い」のセリフ。あの2っには本当にむかついた。焼き肉を食っている友達に「誰が死ぬのー?冗談なんですけどー!」と気丈に振る舞う。最悪だあれは。「パンダのケーキを千恵が食べたら共食いになる」と気さくなお父さん。ひどすぎます。ケータイ小説は笑えるからまだいいんだけど、これは本当に途中退場するか迷った。

明日が来ることは確かに奇跡だ。だけどこの映画が癌の苦しみを利用しているのも事実だ。(☆)