「重力ピエロ」

俺は映像化不可能という言葉が大嫌いなんだけど、最近の伊坂作品を観ていると素直に「原作に忠実且つ上質に再現するのは無理」と認めてしまう。この独特の世界観は「映像ではなく活字でこそじゃないか」と感じてしまい、何やらジンクスめいたものが確立されつつあった。そこでこの「重力ピエロ」。鑑賞後にまず頭をよぎった言葉は「できるんじゃん」だった。

原作を読んでないので、それとなくしか感じ取れないんだけど、ただ「映像化」しようと努めた(もちろん大変な作業)中村義洋監督の二作より、森淳一監督の本作のほうがずーっと「映画化」されている。それが何でなのか書きながら考えてみるとする。まず伊坂作品が一貫して描いているのは、人間関係の間にそびえ立つ「越えられない壁」をとても神秘的な方法で「越えてしまう」ことだと思う。「アヒル〜」では「言葉の壁」。「フィッシュ〜」では「世代の壁」を共に「歌」で超越していた。

んで本作で立ちはだかったのは、生き物には避けられない二つの壁。一つは遺伝子という名の「つながり」。もう一つは死という名の「苦しみ」。一人の純粋悪が生んだ「つながり」を越えたのは、独りでは決して築き上げられない「家族の絆」。「死」という陰気臭く重苦しい壁は「生」の陽気さで軽々しく乗り越えた。この二つは神秘的なものではなく、とても人間的なもの。そこに重点を置いて描いたのが、この映画の素晴らしいところで、原作があまり気にならない要因になったんだと思う。

伊坂作品と言えばラストに収束するミステリー描写だけど、それはあくまで小説ならではの面白味だと勝手に思ってる。放火事件の謎解き部分を回想シーンでサラッと描き、お笑い担当の夏子さんに説明までさせてしまってる。だけどそのおかげで「メチャクチャな家族ドラマ」が成立したように思う。それは伊坂作品の映画的な魅力とはドラマ部分にこそあるからじゃないかな。物議を醸しそうな「Unforgiven Gets Attack」については泉水が語る台詞がすべてだと思う。春にとっては復讐ではなく浄化なのだから。

二人のSpringが乗り越えた二つの壁。二階から落ちてくる春の姿が、二度目は心なしか軽やかに見えた。(★★★★)