ちゃんと伝わらない、を「ちゃんと伝える」

本作の監督は昨年、邦画史に残る大傑作『愛のむきだし』をつくりあげた園子温監督。ひとクセもふたクセもある園監督がその大傑作から間髪入れずに撮ったのが本作で、この映画、題名こそ園子温監督らしく斜めっているけれど、その題材はあろうことかゼロ年代に飽きるほどつくられた「難病もの」で、監督は本作のことを「余命もの」と称していたらしい。ぼくはそれを知って率直に「難病もの」と「余命もの」?…そんなの一緒でしょー!?と思った。んで、やや疑心暗鬼になりながら観てみたんだけど、うーん、たしかにこれはちょっと違うかも。まぁ、その違いについてはあんまりちょっとどうでも良いので省くとして(笑)思うに「難病もの」というジャンルで大勢のひとを納得させる映画をつくることは、すごーくむずかしいんじゃないか?てかむりなんじゃないか?と。

まさしくその「?」こそこの映画から伝わってきたことであって、これは素直におもしろいと思えた。てかずるいくらいおもしろいところを描いたな、と。日本映画界に跋扈する「難病もの」には「自分が死の宣告をされたとき、あなたならどうしますか?」というイライラする押し付けがあって、それを察知するとぼくは「なぜそんな答えのないことを映画にするんだ!まったく!」と本当に気分が悪くなってしまうんだけど、この映画を観てもそうはならない理由は、その「死」を伝えることのむずかしさを重点的に描いたところ。

劇中でEXILEのAKIRAが伊藤歩に「もしおれが癌だったらどうする?」と鎌をかける場面があって、そこで伊藤歩が一瞬本気とも取れそうなほどビミョーな冗談めかし方をして「別れる」と言う。それをきいてAKIRAはヘコむ。そして、回想が終わったのちにもう一度その場面がくるんだけど、ここでAKIRAの受け取り方がまるで違って見えるのはうまかった。そこからAKIRAの葛藤がはじまり、わざわざ同じ場面を二度見せてまで「伝えたいこと」こそがテーマだと見えてくる。

本作にも園子温監督特有の「嘘くさい」演出があって、伊藤歩がこれにかなりうまく応えていた。彼女ステキ。けれど、この「レンタル家族」的な演出がどーも胡散くさいというか、その演出自体が嘘くさい。しかし、これは葬儀の場面などの照れ隠しっぽい外し方を見るにたぶん「どうしたらいいのかわからないので、自分ができることをしました」という演出だと思う。そう考えてみると斜めった題名が弱々しいながらも真っ直ぐになるし、ラストに示される亡き父あての言葉には説得力がでてくる。ただ癌で縮まった命のように時間制限のある媒体である映画において、「死」に直面した人間を描き、赤の他人である観客になにかを伝えるということは、やっぱりむずかしい。

蝉の脱け殻に息子を想う父。人の想いって家族であっても、ちゃんと伝わらないもの。(★★★)