疑問符のある世界「1Q84 BOOK2」

「たかが映画…」なんて台詞を平熱で吐くやつが、ぼくは大嫌いだ。単にそういった文化系のなんちゃらに興味が無いのならまだしも、あの映画のここがどーしたあそこがあーしたという話に花を咲かせているときに、「その話パス」とでも言いたげに話の腰を折るやつ。ぼくはそーゆー輩と遭遇するたびに「ああ、住む世界がちがうんだな」とか「ふーん、こいつバカなんだ」とか、あまり思いたくはないけど、そう思ってなんとか理由づけするしかない、そうでもしないと納得できない、といった嫌な気分にさせられる。「たかが」なんて言葉がぴたりと当てはまる物事なんて、この世にはもうひとつも在りゃしないんだ。

たとえば9.11。当時ぼくは中学生。その日1日をどう過ごしたかまでは覚えてないけれど、起き抜けにテレビから受けた視覚的ショックは未だハッキリと覚えている。事件発生は前の日の夜だけど、その頃からテレビがゲーム・映写機と化していたので、ぼくが知ったのは翌日の朝なのだ。まず「ん?こんな朝っぱらから何の映画だ?」という興味が沸き、ぼけーっと眺めているとなんと現実に起こった映像で、実際に起こったコトなのだという。あんまり驚いたぼくはとにかく「は?」としか思えなかった。そのまま眺めていてもジャッキーやブルース・ウィリスシュワちゃんといったヒーローが、「…という計画を阻止しました!」との吉報はない。ただひたすらに、すでに書き加えられた「過去」となってしまっていた。

その日以来、「テロ」という言葉がぼくにもいくぶん意味を持つようになった。テロリストと聞けば、映画のヤラレ役、ではなく現実に宗教的・政治的な目的のため破壊・殺人行為をするひと、と漠然ながら悪い意味を持つし、テロ行為と聞けば目に見えない命の危険を感じる。ぶっちゃけ今でも電車のなかに物を置いていかれると気になるし、挙動不審な動きを察知するとおかしな心の準備をしてしまう。映画の見過ぎとか小心者とか言われるけど、「映画みたいなこと」が毎日起きてるわけで、それが日本では起きない、もしくは「そんなことをするやつはいない」理由なんて、この世界にはもうどこにもない。少なくともぼくには見当たらないんだ。そういったことを否が応にも思わせる、そうかそうか、じゃなくてほうほうと何処からか囁いてくる、そんなどこまでも曖昧な存在が、「リトル・ピープル」なんだとぼくは思う。

1Q84』の世界には「パラレルワールド」と簡単に位置付けることができない違和感があって、結局最後までその違和感を拭うことはできない。境遇・性格・外見(みんなイメージしづらい)があまりに特殊な登場人物に共感することもあまりない。なのになんでこんなに面白いのかと言うと、とにかく「読ませる」ことを意識、どころではなく前提条件とした物語になっているから。読んでいて何度も何度も天吾や青豆と同じ気持ちにさせられた。決して共感ではなく、どこか「鏡を見ている」ときに近い不思議な感覚。読むのが本当にたのしかった。読了後に調べてみれば、オウム真理教の前身であるヨーガ道場が開かれたのが1984年なんだそうな。これにはちょっと魂消ました。その1984年に疑問符がついた世界1Q84年が舞台なのだけど、果たしてこの物語が現代に通ずるか?は特別重要じゃないように思う。重要なのは、天吾と青豆の想いが通じるのか?の一点のみ。そこに焦点があっているから、世界はまだかろうじて均衡を保っているんだよ。うんうん。

今現在だって重い「碇」のような疑問符をみんな抱えているはず。2Q1Q年、今夜は月が見えない。(★★★★★)