ぜんぶ、社会のせい「告白」

監督中島哲也、主演松たか子というバッチリ布陣で映画が公開される『告白』を読んだ。この感想はちょっと長くなってしまうかもしれない。できるだけ短くまとめたい。「愛美は事故で死んだのではありません。このクラスの生徒に殺されたんです。」。この台詞をきいてまず連想するのが「いじめ」で、昨今の少年犯罪などの社会問題にずばっと切り込んだ、というのが印象としてある。ネット原理主義(か、どうかよくわからないけど)いくないよ、みたいな。それと、学校という場所に様々な角度からイメージをつくりあげた、あのセンセーやあのセンコーに対する冷ややかな視線もある。作者の湊かなえという人は青少年を抱える家庭、学校といった教育現場、そして、その教育現場を扱ったフィクションドラマに対して、かなり思うところがあるらしく、つくりあげられたイメージに乗っかって想像でしかない物事をあたかも真相かのように思い込み面白半分で攻撃をする、という日本人の得意業にほとほとうんざりしているようだ。

じゃあ、その主張を『告白』としてるのかと言えば、違うと思う。そこへくるとどうしてもこの本にだって同じような「想像」でしかないモンスターが登場するじゃないか、と思ってしまうから。結末も結末でどうもしっくりこない。筋は通ってるし構成も抜群、なのになぜか読後に残る妙なうやむや感。語られる登場人物個々の事情がすべて本人の主観でしかないから、あとで別の人物が語る客観意見を読むと、その人の印象がまるっきり変わってしまい、結局のところ全員の事情を知ったところでどれも信用ならないし、抜本的な解決に見える結末にも救いが感じられない。もし、時計の針を事件前日に戻せたとしても救えるのは愛美ちゃんだけで、愛美ちゃんを救えばあとは万々歳とは思えないほど、根は深い。

作者は一体なにを『告白』したのか。ぼくが思ったのは悠子先生と渡辺くん。この2人に作者の本音が振り分けられてるんじゃないか、ってこと。対局にある2人にも実は共通することがある。「復讐を邪魔される」ということだ。一方が「倫理観」に、一方が「憎悪」に、それぞれ目的を妨害される。結局は憎悪に妨害された側が「更正」していくこととなるんだけど、これじゃあ単なる自己満足に過ぎない。じゃあ、どこが間違っていたのか?元を正すにはどうすればよかったのか?それは「離婚」だ。

第一章で語られる悠子先生の事情。「HIVの父親がいるよりは片親でいるほうが社会に受け入れられるのではないか」という判断を下し、愛美のためを思い離婚を決意する悠子先生夫婦。これが違う。渡辺くんの両親も虐待などの原因から離婚をする。結果的に新しい家庭を築こうとする母を知り、渡辺くんのタガは外れてしまう。やっぱり人には母親と父親、両親が必要なのだ。誰かが欠ければ家族は必ず壊れる。HIVが受け入れられない脆い社会には壊れた家族に安住の地はないのだ。一応書いとくと、どんな親でも必要とは言っていない。マトモな両親がいない子どもとその家庭には必ず不幸が待っているというコト。幸い父親を知らないぼくはそれほどつらい思いはしてないけれど、社会は時に異端児へ無理強いをする。

そんな社会ぶち壊してやりたい。そんな社会に迎合する奴らもぜんぶ吹っ飛ばしたい。けれど無理だから痛み分けにした。これはまぎれもない『告白』。さて、明日は母の日か。なにをあげたら喜ぶかなあ。(★★★★)