ファイト・クラブ、その後『冷たい熱帯魚』

園子温監督の最新作。話題沸騰中の問題作ですね。東京まで鼻の下をのばして見てきましたよ。うん、いきなり言っちゃうと本作を手放しで気に入ることはできませんでした。でもすでに大傑作という評価で間違いないと思うので、なぜ自分はそう思えなかったのかという、悪い意味での奇特な視点を書いていきます。ネタバレ?するよ!しなきゃ無理!

タイトルの『冷たい熱帯魚』にある「熱帯魚」という言葉には、パンフやらグーグル先生やらを見るに、どうやら「人」という意味がある。観賞用のフィッシュたちを熱帯魚と呼ぶ場合が多いそうなので、それを加味すると、この映画のラストシーンに映される地球には、海の星を漂う熱帯魚=人間というのがありますわよねん。はい、まずはどや顔から始めまして、本作最大の魅力はなんと言ってもでんでん演じる村田に尽きると思うのですが、今まで映画がつくりあげてきた稀代の悪役たちと肩を並べる怪演をされていて、見ているとジョーカーやトミー・デビートなを思い出させられる。最高。しかし、物語の展開から考えるに一番近いキャラクターはタイラー・ダーデンなのだけど、この映画には『ファイト・クラブ』とは似て非なるものがある。

吹越満演じる主人公・社本(しゃほん)は、村田の手ほどきによって狂気に目覚める。同じ熱帯魚店経営であるからにしてこのあたりが『ファト・クラブ』を想起させるわけだけども、あちらが観客に感情移入の余地を与えているのに対し、本作にはそれがまるでないのだ。おそらくぼくはその「距離感」のようなものにハマっているのだと思う。この映画で狂っているのは社本と村田だけではなく、黒沢あすか演じる村田嫁、神楽坂恵演じる社本嫁、渡辺哲演じる筒井、事件に関わった大人たち全員が狂っていて全員が奇行に走るか死ぬかしている。関わりを持った人物で生き残るのは社本娘のみで、彼女が浴びせかける台詞が救いの無さを表現していて、まとめると、村田から社本へ狂気が伝染し、徹底して救いの無い大人たちを描く。それを人生の「痛み」として、彼らより若い世代へ償わせる。が、その場に置かれていた「死後さばきにあう」の看板のとおり「あんたバ〜カ〜?」といった旨を言い放たれるバッドエンドの親子丼構えを見せる。最後には一連のシーンが「日常」といわんばかりに地球を映したカットで終わる。というものだったが、よく知らない人が狂気に走ったとしてもぼくは何も驚きはしないし、そんなことが日常に潜んでいると言われても「潜んでいるだけならまだ見えてませんね」としか言えない。つまりは実も蓋もないとしか思えないのだ。このバッドエンドにカタルシスを感じるには主人公・社本への感情移入が不可欠で、同じ状況に置かれた場合、多くの人が取るであろう「逃げる」ことをしない彼にはそれが無理なので、まさに熱帯魚を観察しているかのような空虚な気持ちにさせられてしまう。「救われてない」のは死ぬ間際に子供のような態度を取る登場人物たちにおそらくは父への喪失感をかぶせた監督自身「だけ」であって、キリストファンを公言する監督が自らをまるで「救いの無さ」すべてを背負ったかのように見せて若い衆に否定させる・・・これは、そう言われましてもねえ・・・と返事に困るパターンである。とにかくこの映画は「ありきたりな自己完結」という名の監督の自己愛からくる独りよがりな毒抜きにしか見えず、ぼくはあまり好きになれなかった。よく言うボタンの掛け違いふんちゃらのように違和感を感じるワケなんでつね。はー、なんか書いてて微妙に思えてきたど、うん、まあね、はい、そーゆーことだ、よろしくなあ〜。