ロストラブ・イン・トランスレーション『ブルーバレンタイン』

この映画の出来事と実人生が1ミリでも重なれば、映画に対して特別な思いを抱くことができて、そーゆー感想を持てたひとたちが“勝ち組”であって、ボクみたいなのは言うまでもなくアレなんだけど、書きますね。

監督デレク・シアンフランスはパンフレットにて「映画を記憶のように見せたいと思っていた。過去が長期記憶で、現在が短期記憶だね。」と語っている。たしかに過去パートは時間軸がバラバラで現在パートは“24時間の出来事”という物語になっている。これはまさに『(500)日のサマー』を思い出すカンジだけども、あちらはポップで笑えるカンジに仕上がっているので、まあ全然違う映画。『サマー』には気の利いたラストもあるし。

言っちゃえば「二人は最初からこうなる運命だった」とも思うよね。ボクがこの映画から読み取った物語って「夢見がちな男が一目惚れに運命感じて猛アタックしてみたら、その女が私をココから連れてって的なメンヘラ女だった。んで、メンヘラだから別の男の子供みごもっちゃった女はそれでもキミを愛してると言うてくれはる男に運命感じて結婚。ボクらはきっと幸せさ!・・・ごめん、やっぱ無理だった。あーあ、子供がかわいそー」っていうだけのハナシで、“未来の部屋”なんて場所に行くのも、扉が開いている/閉まっているっていう映像の設計を行なっているコトから見れば、台本のない迫真の演技とは裏腹にちょっと作りこみが過ぎて余白がなさすぎるように思うし、ならば第三者的な目線で語らせてみてはどうかと思っていたら適任のシンディパパが家から放り出されるし、まあ色々と「盛りすぎ」だと思うんだよね。辟易としちゃう。

もう好みでしかないんだけど、ボクは『once ダブリンの街角で』くらいのそっけないカンジでこの物語をつくってほしかったなあ。ドキュメンタリーっぽい映像なのに主演ふたりの仕草や画面の構図が示唆的ってのはどうなんだって思う。それと汚い要約の仕方した物語だけど、ホントにあの子供がかわいそう・・・・。あのコにはあのコにしか判らないツラくてツラくて仕方ない人生が待っているんだと思う。この物語はいわゆる男と女のラブゲームにしては本当に特殊なケースだと思うし、そのせいで他人であるボクら観客の入り込める余地が少なくって、「子供の頃に恐れた両親の離婚と対峙するためにつくった」という監督の狙いとは一体何だったのだろう?と悩んでしまうんだよね。よく映画は現実逃避とされているけど、映画を見ているときこそ最良の現実だと思っているボクにはこの映画が「映画館で見なくても普通にその辺で見聞きする話だなあ・・・」ということを思ってしまった。そして、普通にその辺で見聞きしたときもこの映画を見たときと同じように「困る」ことしかできないんだと思う。最後の花火に何を思うかが分かれ道だろうけど、ボクは思い出にひたらせることよりも残された子供の“未来の部屋”をこそ案じるべきだろうよと思う。ま、ここにもシンディが両親を反面教師としている設計がなされているので、ボクにはやっぱりうーんとしか言えないんだけどね。うーん。無理だ。終わる。