BOY Abrams『SUPER 8/スーパーエイト』

J・J・エイブラムス監督最新作。監督曰く、「人生における映画の重要性についての“映画”」だということで、その映画愛の深さとそれらを一本の映画におさめる手腕は計り知れないものがあるとは思うんですが、どうもボクはその「才気」にイライラしてしまいまして、もっとこうオマージュの部分を隠し味にしてですね……以下、こんなカンジのが続きます。

一番の不満は登場する子供たちが「映画好き」という記号でしか表現されていないヘンな子たちに見えること。たとえば、劇中で何かしらの映画の台詞を真似たり、ハリウッドスターなどが直接画面に映るならわかります。でもこの作品にはそれがない。「人生における〜…」なるものがテーマだということはわかるんですけど、どうも最初からそのテーマありきでフィクションの皮を被っているキライを感じるんです。

たとえば、クリストファー・ノーランの『インセプション』ですが、あれもノーラン監督の好きな映画の集合体ではありますけど、潔く人物描写ってものを切り捨てていて、そこらへんは「俳優の持つイメージや演技を利用して短縮している」とかなんとか言えると思うんです。それはボクむしろ上手いと思うし、あと、よく言われるノーラン監督のドヤ顔というのも、アクションシーンの不器用さなどからボクはあまり感じないんです。バットマンをヒットさせて007を復活させるノーラン監督をボクは見たい。話が逸れました。言いたいのはボクにとって『スーパー8』はファーストシーンとラストシーンのつながりがやたら遠回りに感じるようにチグハグとしていてノリきれなかったのだけど、ところがどっこい遠回りとはいえ辻褄がばっちり合うときてる。そこんところの「手腕」に物凄くプンプンしてしまうんですよね。

最近、「キルビル以降」っていう言葉をよく目にするんですが、タランティーノは「復讐劇」や「血で血を洗う抗争」を下地にする場合が多くて、その題材の強味は「人間は人を殺すとき/人に殺されるときに本性を表す」っていうことが人物描写につながる点で、だからキャラクターとしても魅力的だと思うんです。エイブラムスは最低限自分で描くべきそーゆーところも好きな映画に乗っけて理由つけて、ボクみたいな病人をつまはじきにしていると思うんです。やるならばキチンと「エイブラムス少年」としたうえで、彼の実体験にちょっぴりSF(スピルバーグ・フィルム)を混ぜてやってほしかったのよ。それくらいのカンジがボクは好き、という話でした。うー愛がないのだねえ自分。