ノーランッ!ノーランッ!ノーランッ!『ダークナイト ライジング』

ダークナイト ライジング』を見ました。

バットマン ビギンズ』はラストのトランプにワクテカして、『ダークナイト』は皆と同じように狂喜乱舞しながら劇場へ行きまくったというあまりにフツーなノーラン版バットマン好きのボクですよ。

ビミョーな話から始めると、『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒース・レジャーの遺作は『Dr.パルナサスの鏡』ですよね。ボクね、あの映画、恐かったんですよ。

ジョーカーの役が抜けきれていない様子も恐ろしかったんですが、何よりも「別世界への案内人」という重要な役を担っていたヒース・レジャーの死という痛ましい事実を「見る者の望み通りに姿を変える」といった設定ひとつでクリアしてしまっているのがねぇ…。えー?!人が死んじゃったのに設定ひとつで映画は完成しちゃうんだ?!ってねぇ…。

そこへくると今回の『ダークナイト ライジング』。ジョーカーのジョの字もでてこないのはあまりに不自然だし、「ジョーカーに代わる悪役」と「シリーズ通しての設定」という重役を任されたベインは、エメリヤーエンコ・ヒョードル型の絶妙なボディとは裏腹に、そのキャラクター性はしっちゃかめっちゃかになってしまっている。

でも、そこに好感が持てましたね。

自分は何としてでもバットマンを撮りきる!三部作としても完成させる!バットマンの映画化という”ラッキー”を手にした自分の務めを全うするのだ!というノーランの熱い意志が、スクリーンからビシバシ感じられたのです(急にアップになるフォーリー副本部長など)。

ブルース・ウェインやゴードンのゴッサムを救いたいという想いは継承されましたが、アルフレッドのブルースへの願いは果たして叶ったのか。これは大団円と呼んでいいものなのか。答えは多分NOですが、物語=バットマンという存在は確実に継承され、ゴッサムの象徴となりました。

バットマンの正体は、バットマン」という台詞は、シリーズ通して重要なのはバットマンの在り方なのだというノーラン監督の意向のように思います。

バットマンという題材自体には、いずれまた映画化の機会があると思いますが、その日まで、というかその日がきてもノーラン監督のバットマンは、漆黒の衣装をトーテムにしてグルグルと語られ続けるんでしょう。それって凄いよ!まさに伝説!

携わったスタッフ全員にお疲れ様、ありがとうと伝えたいです。テーマソングを思い浮かべるだけで目頭が熱くなるね!おわり。