映画は現実より奇なり『桐島、部活やめるってよ』

桐島、部活やめるってよ』を見ました。

見終わってまず思ったのは「こりゃ大変だ」という想いでした。

モテ側と非モテ側、モテ側のなかでの派閥と非モテ側の趣味の違い。映画のなかの描写ひとつひとつが、登場人物の間に容赦なく線引きをしていく。

その、残酷がゆえにハッキリとした境界線に見覚えと身悶えを感じながら、どのグループもかっこよく描かない映画の行く末を見守っていると、「桐島が部活を辞めた」という、モテ側にとっての大事件とは一切関係のない世界で、自主映画の撮影という名の戦いを繰り広げていた映画部・前田(as神木隆之介)に運動部・つまり、自分が屈してはならない存在との対峙が訪れる。

ここで、この作品が「映画」である以上は、非モテ側の映画部に肩入れをするのかなぁと思いきや、描かれたのは、前田クンの脳内ゾンビによる勝手なスペクタクルと、その後に流れる両軍の無常感。そして、8mmカメラに「特別な力」を感じている前田クンの持っている映画への情熱とは、将来、映画監督を志望するほどのものではなく、好きでやってるだけだからさ〜というくらいのモノだったという、「映画」にとって恐らく一番残酷な「現実」でありました。

この描写が突き付けるもうひとつの現実は、「非モテ側の前田でさえも自分自身を見つめることができている」という、帰宅部または器用貧乏部・宏樹(as東出昌大)にとっての現実だと思います。

コトの発端となった「桐島」と、一番近しい関係にある幼馴染みだった彼は、桐島の退部に慌てふためく学校内の全てのグループとそこそこの関係を築いてしまっている。こういう奴いるなーリアルだなーと思わせてもらえる人物像です。

ところで、フィクションである映画における「リアリティー」って、現実に寄り掛かった描写、現実でもあり得る描写だと思うので、映画は常に現実世界に依存していることになりますよね。虚構である映画が、現実世界のリアリティーを更新するってのは夢物語だけど、現実にあった出来事が虚構のリアリティーを更新することは十二分にあるワケですよね。

そろそろまとめます。

器用貧乏である宏樹の姿が、無数に彩られてきた映画描写の「枯渇」と重なって見えて、しかしながら、その枯渇すらをも「映画」として表現することができる「現実」に、ボクは無限の可能性を感じました。ザッツ・スペクタクル。真っ暗なスクリーンに最後に映った「2012『桐島』映画部」の文字に「日本よ、これが映画だ」なんて流行りの一言を思ったりもして、とても楽しかったです。おわり。