真実は解除できない『ゼロ・ダーク・サーティ』

ゼロ・ダーク・サーティ』感想。

キャスリン・ビグロー監督の前作『ハート・ロッカー』(2008)は、爆弾処理技術には長けているが、人の痛みが全然わからない男が主人公で、物語が進むにつれて彼は自分の気持ちさえもわからなくなり、こういう男を生み出すのが戦争なのだ、という映画だったと思います。だから、彼に解除できる爆弾は全て「無人」であり、いくら戦闘で活躍しても人の気持ちがわからないから恨まれ罵られます。ベッカム少年を見間違えるのも彼の「欠陥」を表しているように思います。たまに会って話している人の顔なら、フツー覚えるでしょうに。基地を抜け出して民家に侵入する場面では、知的な雰囲気のあるイラク男性が彼に対して落ち着き払った態度を見せますが、あれは彼を憐れんでいるんだと思います。きっと、彼のような輩に出くわすのが初めてではないんでしょう。そして、最後の爆弾処理への使命感を妻へと語る場面では、「帰ってきてほしい」という妻の表情に彼は気付くことができません。そういった問題を抱えながら再び戦地へと「戻ることしかできない」人間の損傷を描いた映画=痛みの箱(ハートロッカー)だったのだと思います。

最新作『ゼロ・ダーク・サーティ』も人が変化していく映画ではありましたが、前作よりもよりストイックな映像表現なので、映像体験でいえばほぼストレスという代物でした。そんなこちらの生理を見透かすようにクウェートのクラブ(音楽が流れる)や食事の場面(ガールズトーク)で、瞬間的に雰囲気を和らげて即座に引き戻してくるのはお見事。911テロ時の犠牲者の電話でのやり取りが暗闇のなか流されるオープニングを見た瞬間『ユナイテッド93』(2006)の続きがついに登場と感じましたね。映画は、ビンラディン追跡の追体験を要求してきます。

鑑賞後に知って驚いたのが、役のモデルとなった諜報員には会えなかったらしく(当たり前だけど)、あくまでも周囲の「関係者」からきいた話に想像で肉付けをして脚本をつくったということです(これまた当たり前だけど)。劇中で、CIAが情報に振り回される様子は制作陣と重なります。陰惨な事件でも映画という物語として描き切ることへの使命感がたどりついた寂寥感……。ラストに流れる涙は「この映画は拷問です」と言わんばかりに映画の頭に持ってこられている拷問場面において運び屋の男が流す「明確な感情や物語のない涙」と同じなんじゃないかと。しかし、真実は、映画ではたどり着けない場所にある。目的のための目的を失った彼女の心は、ここではないどこかへ閉じ込められてしまいました。やるせない傑作。おわり。