彷徨える小宇宙『コズモポリス』

コズモポリス』感想。

「♩ストリートからメッカ お前の行く先では 死に意味などない」という歌詞から憶測できるのは、主人公エリック・パッカー(asロバート・パティンソン)が「成り上がり」だということ、そして、この映画が「死」というモノを目的地にして語られているということです。

「“元″を読み違える」までのエリックは、おそらく全能感をこじらせた男でした。「俺のだから」と、ときどき眺めに行く倉庫で眠っている飛行機は、エリック自身がどういう存在なのかを象徴させたものだと思います。故障した飛行機=億万長者から転落した男=死んだも同然の男、ですね。イカロスの翼の話はその傷口をえぐります。けれど、エリック自身は、それがどういった「痛み」なのかわからないんですね。デモ抗議で火だるまになった人間の「痛みを想像しろ」という言葉やラッパーの死を嘆く様子は白々しく映り、防音コルクで外ツラさえ保っていればオーケーという会話などから彼の内実を伴わない人間性が見えてきます。

そんなエリックとは非対称的な存在として、朝昼晩の食事を共にする妻エリーズ(asサラ・ガドン)がいます。彼女は、外からの騒音や自分の考え=内部からの騒音に過敏な女性です。エリックとは違う他者に依存して生きている人間なんですね。彼女と何とかセックスしようと誘い続けるエリックですが、彼女と会う前には別の女性とセックスしています。まるで「予行演習」のように。そんな根本からズレた恋愛感情の結末は当然見るも無残で、「最後の晩餐」では、援助しても構わないという「他人扱い」に加えて「今日から自由よ」などと皮肉を言われる始末。それを契機にエリックは警護主任を射殺したりリムジンを下りたりと自ら外ツラを剥いでいきます。

クライマックス。ハッキリとした自覚症状のないまま「失うもの」をなくしたエリック。そんな「死んだも同然」である彼の「命」を狙う男が現れます。2つの名前を名乗るデブハゲニートの男(asポール・ジアマッティ)です。彼は2つの名前を名乗るんですが、これはたぶん映画の中で彼は「2人目」ということだと思います。その1人目はエリックです。一見、イケメンとブサ男で非対称的な2人ですが、実は「前立腺が非対称な者同士&生きてる実感を得られずに生きている者同士」なんですね。だから、映画は2人が銃をくわえたり突き付けたりの様子を「対称的」に映します。が、当の2人にそんな意識はなく、エリックは自らの手を撃ち抜いて痛みを“肉体的″に感じながら「自己完結」してしまうんですねぇ。そして、対称的な男の言う「救ってほしかったんだ」の一言が最期の銃声を前に虚しくこだまするのでした。ハイ。リムジンのように「伸びたリズム」が感覚的に妙に気持ちいい映画でありました。おわり