スーパーヒーロー孝行『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』

キック・アスジャスティス・フォーエバー』感想。

1作目はヒットガール活躍時の敵が弱くて言うほど好きではないんですが、今回は良かったです!楽しめました。へなちょこ主人公デイブ(asアーロン・ジョンソン)は、キックアスになったことでひと皮むけた、かに思われたが、実際には、そんなことを続けていたら命がいくつあっても足りない、ということでキックアス活動を止めていた。が、今や街には彼の影響を受けたスーパーヒーロー達が溢れ返り、ミンディことヒットガール(asクロエ・グレース・モレッツ)も身を潜めながらも虎視眈々とその腕を磨いていた…

ヒーロー活動をしたい、親の仇を討ちたい、っていう気持ちを抑制させられている者たちの「撥ね付けられた姿」が丹念に描かれていました。大いなる力には大いなる責任が伴う、とはいえ、その力はバットマンスパイダーマンになれるほどのモノではない、といった「等身大の葛藤」を描いているのがこのシリーズの醍醐味です。

いくらボンクラだからといって命を投げ出してまで正義を施行する気持ちはわかりませんし、親から殺人技術を叩き込まれることなんてイメージすら湧きません。1作目は、少女の活躍が「異常」だからこそのインパクトでありましたが、2作目となる今回は、その異常性について考えさせてくれます。

劇中、たびたび言われる「汚い言葉を使うな」というセリフは、一概にスーパーヒーローといえど、その中に「子ども」と「親」が入り交じっていることを意識させます。そもそも、ヒットガールという存在は、キックアスやマザーファッカーのような“自らその道を選んだヒーロー”ではなく、“親が創り出したヒーロー”でした。

お前の責任は親の私が負うんだから何をしでかすかわからないうちは家に閉じ込めておく、高校生の健康な男の子ならオナニーくらい普通のこと、女の子なら女の子らしい立ち居振舞いをするべき。子どもの幸せを願うあまりに…というのは往々にしてあることですが、その接し方は「自分の子ども」を一般論的な「子ども」に当てはめてしまっていて、「我が子」という一人の人間として接してはいないんですね。そうなると、子ども側は嘘でやり過ごしたくなるし、事情を説明するのも面倒くさくなる。「子ども扱い」されているから。だから、ミンディによる「私が子どもだったことなんて無い」というセリフにはハッとさせられましたね。

自分の想いに正直に、それも、相応の覚悟を決めて行動することの難しさには、大人と子どもの境なんて無いです。その象徴として、キックアスの影響を受けたストライプス大佐(asジム・キャリー)がいるし、それがパクりでも変なネーミングセンスでも「本人の意見を尊重する」ということが描かれます。ラスト、正義/悪という概念を越えて、自分の選んだ道への決意を固めるキックアス、そして、親元を離れるヒットガールの姿には「確かに歩み出した者の強さ」がありました。ボクが親だったら、自分の子どもを見るうえで、こんなに嬉しい瞬間はないと思います。くしゃみをするみたいに人を殺しちゃうのも親心の見せ場というもの。ハイ、面白かったです!おわり