俺ギターあんたエレベーター『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』

インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』感想。

普通くらいにはコーエン兄弟好きなのでそそくさと見てまいりました。上半期に見たなかでもベストの方だし、コーエン兄弟作品のなかでもトップクラスに好きでしたね〜。

主人公ルーウィン(asオスカー・アイザック)がはじめに唄う「Hang me〜」という歌。死んだひとを弔う歌というよりは死んだひとそのものを歌にしたような印象を受ける無情感にあふれている。宿無しの寄る辺無しの彼が醸し出す歩くワケあり物件感がまずキャラクターとしての魅力だ。

「猫の脱走」をキッカケに、彼は色んなところへ足を運ぶが、そこで起こるジーン(asキャリー・マリガン)の妊娠発覚、ジム(asジャスティン・ティンバーレイク)に演奏の代役を頼まれたりといったことは、ルーウィンの意思とは関係なく起きた事ばかり。

それに嫌気が差すでもなく猫に振り回されるまま転々とするルーウィン。ひとつ、彼が感情を露にするのは“音楽”への向き合い方と“ハモること”について。デュオを組んでいたらしい過去とそれを失ってしまった傷跡が見える。

けれど、映画はその過去に寄り添うでもなく、また、物語はその傷を癒すこともしない。過去は過去として彼の中にただあるだけで、特段に問題にもしない。相棒の死と何処かで生きている我が子を共鳴させることなどしないし、ルーウィン本人もその確認に終始するだけ。確認をしても追求することはなく「やっぱりな」と納得することもない。口にするのは「疲れた」という一言だけ。

ルーウィンの人生は映画のあとも続いていく。彼の過ごした無情な時期がフォークソングという文化と彼自身の外側で共鳴しているようにも思える。でも、それがいったい何だと言うんだろう。たぶん、何でもないのだと思う。コーエン兄弟という映画界きっての“相棒”監督、いつかは訪れるであろうお互いの死について、もしかしたらそういう態度でいるのかもしれない。ソファーの寝心地を確かめたり、雪でびしょびしょになった素足良かった〜。「どうかな」が口癖なルーウィンのテンションと世間との距離感が映画に猫のように丸く気だるくだからこそ親しみある輪郭を与えている。見ていて心地いい響き系の傑作でありました。おわり