それでもオレは殺ってない『渇き。』

『渇き。』感想。

妻に浮気され、娘には冷ややかな目で見られ、義父に色々なあれこれを手配され、身動きが取れなくなったところで依願退職させられ、というかコレはオレが好き勝手やって招いた結果かそれなら仕方ないかと警備員に落ちぶれながら堕ちていくことを受け入れた男。主人公・藤島昭和(as役所広司)にはそんな印象を持ちました。とにかく彼に見ていて飽きない魅力があって、それだけで映画に惹きつけられます。乱暴者で自堕落、それを自認したところでコンビニ殺人事件の重要参考人となり、舞い込んでくる娘・加奈子(as小松菜奈)失踪の一報。娘の行方を突き止められさえすればあるいは−−−−ここから物語が動き始めます。

暴力でしか愛情表現できない。藤島はそういう欠陥を持った男ですが、彼にもまだ壊れていない部分があります。元妻・桐子(as黒沢あすか)から加奈子が行方不明になったときいて意気揚々とオシャレして靴下に穴あけて加奈子が「クスリなんてやるわけないだろ」と捜査を始めるところ。それと「どうせ自分だけが狂っていて周りはみんなマトモなんだろ」とまるで殻に閉じこもった少年のようなところ。ここは理解できるなーと思いました。でも「だってあんた、顔笑ってるよ」の一言がキーッとブレーキをかけてしまう。娘がクスリと関係を持っていて未だ行方不明だってのによく笑ってられるねっていう感性が、藤島なりの「更生」を止めてしまう。ココに傀儡女優・黒沢あすかをわざわざキャスティングするいやらしさ。

藤島が笑っていたのは「まだまだオレっていけるじゃん?加奈子の潔白を突き止めればもしかしてやり直せるじゃん?」っていう期待に満ち溢れていたからで、それこそまさしく健全な“渇き”じゃん!となっていたんですが、桐子の一言でブレーキがかかり、加奈子の情報は暗い話題ばかり増えていき、物語にボロ雑巾のように扱われる藤島。そして、まるで加奈子は純粋悪で彼女の親であるお前も当たり前のように悪だと言わんばかりの「俺らはクソだが、ルールは守る。お前ら“親子”は自由すぎんだよ」石丸組若頭・咲山(as青木崇高)によるトドメの一撃で藤島は壊れ、愛川(asオダギリジョー)との対決にノセられ、自身の中にある「夢」と心中するように愛川の家庭を破壊し「ぶっ壊してやった!ハハ!」と満足そうに笑う。その姿は「やっぱりオレみたいなはみ出し者は狂うしかないんだ!はじめからもうどうしようもなかったんだ!」という自己欺瞞に満ち溢れていて、その悪意には清々しさすらありました。

悪さばかりの夏が終わって、舞台は冬へ。藤島はある場所へ辿り着きました。愛してる、ぶっ殺す、クソが!本来正反対であるはずの感情をついぞ整理できなかった男が最後に口にする「オレが見つけて、ちゃんと殺す」という言葉。「殺す」ことを「親の責任」と藤島は言っていました。それは歪んだ考えと思います。けれど、我が子に対してできる唯一のこと、その術が藤島には「殺す」ことしか残されていなかった。それ以外にもう何も出来はしない。ならば、この期に及んでも、藤島にまだかろうじて善性と呼べるものが残されているのでは?そんな欲求をおぼえてしまう物語への“渇き”−−−−ここで映画は幕を閉じます。

下妻物語』[2004] 、『パコと魔法の絵本』[2006]、『嫌われ松子の一生』[2008]、『告白』[2010]、うまく言い表せませんが、中島哲也監督の映画にある絶妙な“若者感覚”が好きです。それと、ヤンキー女、入院中の爺さん、死んだ松子アンド松たか子。そして今回の藤島。すべての作品にある「人に善性は残されるか」みたいな心構え、これも好きですね。ハイ。というわけで、今年あまり見れていない邦画ではもちろんダントツ、上半期に見たなかでもトップクラスに好きでありました。おわり