欠けているもの見たかったもの『思い出のマーニー』

思い出のマーニー』感想。

見終わって思い出したのは、宮崎駿がたしか『風立ちぬ』[2013]制作の裏側かなんかで言っていた「描いてるんじゃない。描かされてるんだ。」という一言。自分が描いているキャラクターや組み立てているストーリーなど、映画の要素すべては「時代から欠けているもの。時代から要求されているものだ。」ということを言っているのだと個人的には解釈している。

それは“物事を引き算で考えられる”ことの表れと思う。まずはじめに「時代」を見極めることが普通の人より上手く出来る。他人には見えないけれどだからこそ周囲を惹き付ける自分の「世界」を持っている。そこに足りないもの、そこから欠けているものを見出しすくい取ることで作品に反映させる。これが宮崎駿らいわゆる“持ってる人”の手法と思う。

だから、主人公・杏奈(as高月彩良)はどうして「私は私が嫌い」と思ってしまうのか?湿地屋敷で出会うマーニー(as有村架純)はいったい何者なのか?この映画の物語はどこへ向かうのか?というミステリーの体をもって、観客にも暗にその存在が伝えられる「答え」に向かって「足し算」していくこの物語とは相性が悪いんだと思う。

冒頭の公園の場面。「この世界には目に見えない魔法の輪があって、その輪には内側と外側がある。私は外側の人間。私は私が嫌い」。まさしく監督本人が共感を示しているであろう今回の主人公の“像”を決定づける場面ですが、それをたった一言の独白だけで行ってほしくなかった。スケッチを先生が見てくれそうになったとき一瞬表情がゆるむけれど、ならば彼女はまだ絶対的に自分が外側であると思いきれていないのでは?そもそもあのくらいの出来事が学校生活においていっときも無かったのか?この辺り、もっと綿密にやってほしかった。湿地屋敷に旅立つ前にもっと杏奈の像を固めておいてほしかった。たとえば主題歌を流しながらオープニングでサラリと杏奈の日常に触れておくとか。野暮ったいのかもしれないけれど、そこに創意工夫が生まれると思う。米林監督の足し算はどうも物足りない。

終盤、マーニーのことが語られ、その場面を“見ている”杏奈。この「ただ見ている」という表現も好きになれない。杏奈が自分自身の中に「もともとあったけれどキッカケがなくて気が付けなかったものに初めて出会う場面」この物語が一気に収束する場面をそのまま“見ている=聞いている”という表現でいいのかと。もっとこう逆・走馬灯といった奔流っぽいイメージなんじゃないかと。そしてそれは間違っても「涙」という感情の結果で表されるのではなく、涙を流すに至る感情の「過程」であると思う。こうブワッとわきあがる感じ。そのシーンを見たときに『思い出のマーニー』というタイトルがより一層色付くような、そんな意気込みと攻めの姿勢がこの場面ではほしかった。

「子どもたちのために映画をつくりたい。この映画を見に来る杏奈やマーニーに寄り添うような映画をつくりたい」−−−−公式サイトにある米林監督のコメントも気になる。杏奈やマーニーみたいな子どもたちは「寄り添うこと」で喜ぶだろうか?たとえば「映画」を日常生活の逃げ道にしてこの物語に触れたとする。スクリーンに映るのは自分と同じような少女たちの姿。それってどうなんだろう。ボクが子どもだったときは自分にはわからないことに「驚くこと」が映画や物語への入り口だった。現実にこの映画を見た子どもたちの称賛の声が挙がっているならボクが乙だということだけど。見終えてそんな光景が思い浮かぶことはなかったです。無念。おわり