ママが何とかしてくれる『ゴーン・ガール』

以前、『ドラゴン・タトゥーの女』(2011)制作時に言っていた「この映画のミステリー要素にはまったく興味がない」とのフィンチャー監督の言葉に嬉しくなったことがあります。OPクレジットでイメージされているように「2人の関係の変容を如何に描くか」に集中しているんですね。フィンチャー監督の審美眼には毎度惚れ惚れさせてもらってます。

ゴーン・ガール』感想。

相も変わらずの底冷え&グレー感漂いまくりの不穏素晴らしい今回の映画も、謎解き要素は半分手前でスパッとやめて、あらかた真相が明らかになってからが本番。すると「いったいこの映画がどこに向かっているのかわからない」気持ちにさせられてしまい主人公ニック(ベン・アフレック)と共に謎解きパート以上に当惑させられていきます。妻エイミー(ロザムンド・パイク)があまりに強烈なキャラクターであったのはもちろんなんですが、もっとも面白いのは、証拠でコロコロと「立場を変える」刑事やゴシップに右往左往する部外者に囲まれながら、渦中のニックが最後には自分のことがわからなくなっていくところです。以下、最終的にはわかってないけどゴニョゴニョ書きます。


1.理想と現実

序盤、ニックの現在とエイミーの過去が交互に映されます。その〈切り替わり〉は日記を綴るエイミーの独白で行われます。で、過去から現在へ戻るのを何回か繰り返していくわけですが、そのときの映像の重ね方がイヤラシイです。プロポーズしてキス→警察に口内のDNA採取。同じシーツのプレゼントを喜ぶ→妹の家のソファを寝床にするためシーツをしく。働かずにゲームばかりしているときに着ているシャツ→妻の捜索本部で人前に出るときに同じシャツ。2人の結婚生活は理想と現実の破綻によって引き裂かれたことを過去現在の重ね方で示しているんですね。


2.悲劇と喜劇

見終わって偶然辿りついた言葉ですが、チャップリンの名言に「人生は近くから見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇だ」というものがあるそうです。この映画に潜んでいるコメディ性を見事に表現しているなぁと思いました。実際、見ていて一番笑えたのは弁護士ボルト(タイラー・ペリー)がときおり放つ明け透けのないコメントなんですね(キチガイって言ってくれた!)。彼の存在は、物語が何をどう紡ごうとも「他人」にはあくまで「他人事」でしかないことを語っています。


3.嘘と真実

こいつは嘘つき?ほんとのこと言ってる?そんな探り合いが佳境に入るにつれ、ボクにはニックが嘘をいっているのかどうかわからなくなりました。妻が残したヒントを「わかった!」と無邪気に楽しむニック。妻の前で偽り演じていた時間の暗く重い時間が、いつしかニックを蝕んでいったんじゃないでしょうか。だとすれば、クライマックスでエイミーのいう「あなたはクソ女に好かれようと演じる自分が好きなのよ」は核心をついていますし、マーゴへ投げかける「子どもへの責任」なんて言葉は、ニックがそう思いたいだけであって、マーゴにはニックのどうしようもない変化が感じ取れるから泣きじゃくるんだと思います。そして、そのニックの心境は、エイミーのでっち上げ話にあった「夫の暴力は怖いが、何よりも夫に怯える自分の気持ちが怖い」に繋がってくるんですね。嘘がほんとになってしまいました。

4.ニックとエイミー

オープニングとラスト、ニックはエイミーの頭の中を思います。わからなくなった自身の気持ちの答えをエイミーに求めるんですね。エイミーは自分のことを「戦士」といい、何が何でも理想を維持することを選びます。いっぽうニックはそんな現実に疲れ果て辟易しつつも、そこに居心地の良ささえ感じ始めてしまいます。「自分を偽ること」。それだけで生きていけるのは確かにある種ラクかもしれません。戦い続ける者と戦うことをやめた者。二人はつまり『セブン』(1995)的な戦う価値のある世界のなかで戦い抜いた者たちだったように思います。これからが本当の戦いみたいなもんですけど。いやはやしかし、こんな状況を何とかしてくれるかもしれないニックとマーゴのママってどんな人だったんだろう。と、ネットを巡っていたらフィンチャー監督のお母さんはハーバード大卒だという無駄な事実に辿りつきました。ハイ。これ以上書き殴っても先はないので、セブン頼みでサマセット・モームの言葉を書いて終わりにします。「愛とは、お互いに相手のことを知らない男女の間に生まれるものだ」。(おわり)