見えるこわさ『アメリカン・スナイパー』

アメリカン・スナイパー』感想。

約1ヶ月前に鑑賞してからというもの、この映画のことが浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返していました。何か感想を書くならこの映画にしたいけど何も書くことが思い浮かばないなと。「戦争映画」ではなく、戦場を舞台とした人間ドラマだったこの映画をどう見ればいいんだろう?と無い頭を苛ませていたわけです。それでも、たかが映画と割り切ることは不器用なボクにはできなくて、かといって咀嚼しきる知識もない。だとしたってイーストウッドの映画だもん見たいじゃん感想書きたいじゃんこの間の映画なんてシェ〜リィ〜♪だよ?!などと自問自答した次第であります(とほほ)


この映画、こわかったんですよ。というのも、クリス・カイルを殺害した元海兵隊員がカイルの弟によく似た人物を配したように見えて、それはつまり、この映画が実在のクリス・カイルの「人生」を「あのとき明らかに様子が変わっていた弟を救えなかった兄に訪れた悲運」という「物語」に変換しているのではと感じたんですね。そして、その悲運を悼む人々を記録映像を用いて描写し、その映像に「悲運だと悼むこと自体の哀しさ」を滲ませ、クリス・カイルという人物を人身御供的に「映画」へ昇華させていると感じたんです。「死が必然的に見えてしまうことのこわさ」を覚えました。

あの砂嵐に父の教えのまま手にした銃は飲み込まれ、その銃で撃った相手も見えなくなり、何かを置いてきたまま肉体だけが車に乗り込んだきた感じ。あのシーンもこわかったです。何が正しくて何が間違ってるのか、そもそも一体何を問題にしているのか。けむに巻かれてわからなくなります。カイルの狙撃スコープ視点のときが一番話が明快でヘンなことを言うようですが落ち着いて見ていられましたね。ハイ。ブログ、久しぶりでした。ひとまず慣らし運転で。(おわり)