希望は持つものじゃなく与えるもの『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

3回目を見てきました。面白い。何度見ても面白い。公開初日に3D字幕と2D吹替を見たので何となくあと2D字幕も見とかなきゃって思って行ってきました。3回目なのに全然胸張れないのがスゴい。

マッドマックス 怒りのデス・ロード』感想その2

※この格好で見させられる映画館とかあったらヤバい


あらためてここが好きだな最高だなって思ったのは、何かでアクセル踏みっぱなしにしておかなければならない状況がほとんどのなか、視線や表情だけでキャラクター同士の察する動作が行われること、と同時にピタゴラ的に連動していくアクションの心地良さです。

隊形を組み直せ!と、突然の進路変更に合わせる統制にこれまでの歴戦が感じられて気持ちいい。猛々しい汽笛は会敵の合図で銀のスプレーとオレを見ろの一言は彼等の儀式だ。まるで何かの実地研修を受けているようで楽しい。習うより慣れよとはこのことだ。第1ステージともいえる砂嵐へ突入するまでに主人公マックスはオープニングの語りをのぞいてたった一言「オレの車!」としか言わない。にも関わらずいやだからこそ「あぁコイツはしっかりと狂っているんだな」と理解させてもらえる。世界観と人物描写を同時進行でやってくれる神がかり的な手際の良さに圧倒されます。

目当てのタンクが爆発すると深追いをやめるヤマアラシの描写も実に鮮やか。弾を込めてと云われ何もできなかったスプレンディドがその責任感からイモータン・ジョーの接近を身を挺して凌ぐという描写のきめ細やかさも素晴らしい。繰り返しになるけど、一連のアクションの中にキャラクターの心情がきちんと盛り込んであるんですね。そして、そんな彼女の行動をおそらくは察知したであろうマックスが、彼女をそっと親指を立て讃えるクールさ。たまらない。何なのだこの映画は。点で終わらせない線の描写とはこんなにも人を感動させるものなのか。マックスはこのあと「目には目を」の行動を取る。この頃にはフュリオサとマックスの間に信頼関係がガッチリ結ばれており、観客と共に見ず知らずの二人も理解を深めていたのだと気付かされます。

このような描写を経て、マックスやフュリオサらワイヴスにとっては逃走劇、ニュークスにとっては追走劇だったものが「救出劇」へと移行していく快感で心と脳内が満たされていきます。

ラスト。シタデルへの帰還を果たしイモータン・ジョーの亡き骸を見せると民衆から沸き上がる歓声、そして注がれる監視役の息子へのウォーププスの子ども達の視線。歓声はいたってシンプルなものだけど、あの視線については少し考えたい。王が死んだと分かるなり残された息子にあんな視線を送るということは、きっとウォーププスたちは歯車を駆動させたり太鼓を叩いたりの日々を送りながら、地上のいる人々を見下ろすときに「これでいいのかな」とモヤモヤしていたんだろう。そのモヤモヤは少なくとも人間性は失われていないことの証左であり、同時に幼い子どもであっても希望の名のもと牙を向く世界の残虐性だ。何度見てもレバーを引きフュリオサたちを招き入れるのはその子どもたちの手によるものだという描写に考えさせられてしまう。そして、武器将軍に人喰い男爵、ドゥーフウォーリアーやリクタスと、軒並み中堅クラスを蹴散らして美味しいところはフュリオサに譲ったマックスが最後に魅力的な姿を見せてくれる。世の中は善悪だけで解決することはできないけれど、それでも生きる居場所はあるという風景を苦虫を噛んだような表情で眺め、そのなかでオレにできるのはせいぜいマイナスをゼロに戻すことなどと背中で捨てゼリフを吐きながら交わすフュリオサとの微笑み。希望とは持つもの抱くものではなく、誰かに与えるものなのだ。そのことをワイヴスを連れ出すフュリオサのそれにある儚さやニュークスの生きざまなど、さまざまな形でこの映画は提示してくれていたのだとラストのマックスの姿が語る。なんだこれは。なんなんだマックスてやつは。あんたのことをいつまでも見ていたいよ。あんたとずっと一緒にいたいよなのにあああああ映画が終わってしまう!なんてラブリーな映画なんだ!!!と、何度見ても同じ感想を抱かされるのでした。あーーーー極上爆音上映、来月いっぱいくらいまでやっててくれるかな。行きたい。めちゃくちゃ行きたいです。以上!