シティ・オブ・ザ・デッド『ジョニー・マッド・ドッグ』

レンタル開始を心待ちにしていた本作。じっくりと見てしまったよ。「少年兵」という言葉から受ける違和感がこれでもかとぎっしり詰まった傑作。始まりから終わりまで眉をひそめずに見られたシーンはひとつもなかった。

主人公は狂犬“マッド・ドッグ”の異名を持つ少年兵のリーダー格ジョニー。彼の表情を肩越しから捉えたカットで映画は始まるが、一瞬でそれとわかるギラついた眼に、ぼくのような凡人がつけいる隙はない。「自分にはどうすることもできない」という絶望を表情ひとつで簡単に伝えてくれるこのオープニングシーン、これを映し出せた時点で映画としてはすでに勝ちだったが、そこからおよそ90分間とどまることを知らないありとあらゆるバイオレンスを無機質に描き出してゆく。

そのなかで彼らの襲撃を受けた何人かはすでに死を悟っているように見える。まるで「いつかはこんな日がくると思っていた」とでも思っていたかのように冷静に彼らと向き合っているのだ。死と隣り合わせの生活を送っていたであろう人々が、よもやその「死」を受け入れてしまっているのだから、衝撃という言葉では生ぬるいし、絶望という言葉にも違和感がある。彼ら少年兵がどれだけ殺戮を繰り広げようとも、ぼくにはただそれを目に焼き付け、物事として知ることでしか処理できないのだ。

そんな異様な光景の連続と対比するように、映画には少女ラオコレの物語もある。彼女の存在が唯一観客の視点に近いものを感じさせるが、それゆえの虚無感も見事に描かれてしまう。殺戮描写以外の場面でもっとも印象的だったのは、寝そべると乳房が床についてしまうほど横にただれた女性の出産シーン。元気よく生まれた赤ん坊を抱きしめようとする素振りもせずただ見つめる母。何気なく唐突にはさまれたシーンだったが、ぼくにはこの母親が「こんな世界に我が子を生んでしまった」と思っているように見えてしまい、戦慄した。この街では生きていようとも死んだも同然。生まれた赤ん坊の行く末はマッド・ドッグかそれとも。願わくはラオコレ側であってほしいが、それでも尚、皆平等に“こども”であるという現実に、ぼくみたいなのは再度戦慄する他ない。