ビリオンダラー・ベイビー『ソーシャル・ネットワーク』

話題が話題を呼ぶ超話題作。この土日に2夜連続で見てきてしまいました。史上最大のSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)となったフェイスブック。その創始者であるハーバード大学マーク・ザッカーバーグについての物語。

ここ数年間で一番すごい映画とは何だろう?ぼくにとってはタランティーノの『イングロリアス・バスターズ』がそれにあたる。タランティーノがもっとも愛するものである「映画」そのものが、現実世界で成しえなかった「復讐」を映画のなかで実行してしまう、という作品だ。現実では無理なこと/もしくは無理“だった”ことを映画のなかで無理くりにでもやってしまうものにぼくはすこぶる弱い。そーゆー映画でしか味わえない快感を覚えるたびに、ものづくりの原動力とは、何かに対する反抗心であるものなんだな、と納得しつつその創造性に圧倒されてしまうのだ。

イングロリアス・バスターズ』同様、本作『ソーシャル・ネットワーク』にも膨大な台詞が用意されている。それはまるで現在からフェイスブック誕生までの6年間をさかのぼるようなのだが、その手法のあまりにも華麗な板についた感は、デヴィッド・フィンチャー監督の前作『ベンジャミン・バトン』が前フリだったのではないかと思えるほど。また、フェイスブックを立ち上げたきっかけも「みんなに気に入られたい」という単純な行動原理にもとづいたもので、その実現のために学内クラブの排他的なシステムを逆手に取ったり、既存のシステムをダウンさせようと破壊衝動に駆られる姿は『ファイト・クラブ』の彼のよう。さらに四六時中フェイスブックを拡大させようと考えている『ゾディアック』の登場人物と同じ病理的なモノも。いくら脚色したとはいえ、あまりにもデヴィッド・フィンチャーの烙印が押された作品である。

そんなフィンチャー作品として見れる本作だが、この映画が映画たらしめている物語性とは、描かれる多くの情報が現実世界にもある「事実」だということと、それが今まさになう「進行中」だということにある。どうやらザッカーバーグの彼女云々という脚色があるようだが、少なくともユーザー登録5億人や時価総額250億という数値に嘘はないはず。ラストシーンで原点に立ち返るザッカーバーグの表情には困惑が浮かぶ。元カノ・エリカにサイテー野郎と言われたが自分は悪人じゃないと彼は言う。でも、悪いように振る舞ってるだけでしょ?と肯定されると何だか困ってしまう。ぼくには彼が「何がわからないのかがわからない」という状況に陥っているように見えた。だからこそ彼は何か確信を求めるように「F5」を押し続けるし、ひとまずできることとはフェイスブックの確認だけなのだろう。そして、その答えはこれから現実世界のマーク・ザッカーバーグ本人により描かれることとなる。『イングロリアス・バスターズ』とは逆に映画がなしえなかったことをフィンチャー監督によって絡めとられた現実がやってしまうのだ。それが事実として観客に伝わったときようやく映画は完成する。おそらくはインターネットを通じて。