オール・アバウト・マイ・ママー『バーバー』

2001年製作のコーエン兄弟監督9作品目。最近、コーエン兄弟の映画を見返しています。ジョン・グッドマンの強烈さが印象に残っていた『バートン・フィンク』を皮切りに、最高傑作の呼び声高い『ファーゴ』、カルト人気作『ビッグ・リボウスキ』の二大巨頭を経て、今回、この『バーバー』を見るにいたりましたです。原題は『The Man Who Wasn't There(そこにいなかった男)』。

カンケーない話からはじめると、ボクの母ちゃんは高校時代に聖子ちゃんカットにしていた。小さい頃に母上の卒業アルバムを見て知ったのだが、自分の親がそのときの流行にのった姿をしているというのは何だか不思議なもので、当たり前だけど今のボクにとって特別な存在である母君が、どこか周囲に紛れ込んでしまっているように見えてとても可笑しく感じてしまったのだ。

ビリー・ボブ・ソーントン演じる本作『バーバー』の主人公エドは床屋の男。床屋の女と結婚したからたまたま床屋になったエドだが、妻の浮気という動機から及んでしまった恐喝行為により、周囲のひとびとを思わぬ事態にさらし、積み重なった事実に埋もれた「真実」は有耶無耶になって、やがてエドは『そこにいなかった男』になってしまう、という物語。

『そこにいなかった男』には、消えてしまった真相=エドそのものという意味のほかにこれまでの人生を否定しにかかった行動=恐喝が、皮肉にも彼が一番欲していたものとは「この世の言葉では言い表せないこと」であったという、「希望」とは言い切れないが人生において大きな発見をする=この世にはなかった、との意味もあるように思う。テーマ曲になっているベートーベンの『悲愴』はそのことへの悲しみを表現しているのかもしれない。

本作はコーエン兄弟監督5作品目『未来は今』の撮影中に1940年代に流行していたさまざまなヘアスタイルを掲載した雑誌から着想を得たそうで、何かを「見た」というだけで一本の長編映画、もといひとりの男の人生をつくりあげてしまうコーエン兄弟はやっぱりスーパー素敵すぎる。ボクもうら若きマミーの聖子ちゃんカットを見つめながら、人生において何が悲しみで何が喜びかなんてことを考えてみようかなあ、なんて思っていたら早速悲しくなってきたので、もう終わりにします。