時を欠ける少女『八日目の蝉』

評判が賛否分かれているので、自分はどうかなと不安を抱きながら鑑賞してきました。結果からいえば、終盤における登場人物たちの姿に大号泣してしまい、また、この特殊としかいいようがない物語についてじっくりと考えてみたいなと思わせてもらえました。ちなみに蝉は七日しか生きられないというのは俗説なんだそうな*1。普通ではない特殊な人生を強いられた者たちによるその埋め合わせの物語。

劇中でしきりに登場する言葉がある。「からっぽのがらんどう」という言葉だ。ボクはこの「がらんどう」という聞きなれない言葉を耳にするたび、一体どーゆー漢字を書くのだろう?と気になって仕方がなかった。それも物語が進むにつれてますますこの言葉にぶつかり、ほとんど気が気でなかったくらいだ。当然のように鑑賞後に調べてみたところ、どうやら「伽藍堂」と書くそうだ。漢字を知ったところで何やらしこりが残るので、ついでにその意味も調べてみた。すると、某ウィキペディア様によれば「伽藍」という言葉には、僧侶が集まって修行する清浄な場所、つまりは寺院という意味があるそうで、「空っぽの伽藍堂」にはだだっ広い部屋に何も物が置かれていない空疎な空間であるとの意味があるとわかった。

まあ、その程度の意味など「からっぽ」という形容詞がついている時点で容易に察することができるわけだが、どうにもすっきりしないボクは文字を分けて「伽」と「藍」の意味について調べてみた。まず、「伽」という字には「退屈をなぐさめるために話し相手をすること」という意味があり、この意味を映画に照らし合わせてみれば劇中での井上真央小池栄子の姿が浮かび上がってくる。次に「藍」という言葉だけど、これは単純に色彩の「藍色」だということが一番すんなりくる意味だろう。それとすぐに連想するのが「青は藍より出でて藍より青し」という言葉ではあるが、この言葉には「親よりも優れた子供」との意味もあるそうだ。むむむ。何か見えてきましたね。

「空っぽの伽藍堂」とは永作博美演じる誘拐犯に向けられた言葉だけれど、この言葉が言い表していたのはお腹に宿していた子/井上真央のこと、また、彼女と同じ時間を過ごした小池栄子のことだ。ふたりが再会を果たし、その失われた時間を何かで埋め合わせようとする物語がこの映画ではあるが、なにしろ彼女たちは、ボクのような常人が知りえないあまりに特殊な「失われ方」をしているのだ。しかし、その彼女たちが、真昼間に星を探すようにただひた走り、かと思えばぜんまいの切れた人形のように座り込み、うまくだせなかった感情をむきだしに泣きじゃくり、それでも、身に宿した命に希望を託そうとする姿は、どうしようもないくらいに人間じみているように思えた。そう感じたボクは、何の埋め合わせにもならない第三者の涙をぼろぼろと流し、ただただ胸を打たれるばかりなのであった。

*1:http://d.hatena.ne.jp/DieSixx/20110504恥ずかしながらこちら様を読んで初めて知った事実w映画への感じ方も違っていて面白いです。