善き人志のためのソナタ『さや侍』

ソーシャル・ネットワーク』で一番好きな場面は間違いなくオレンジのポロシャツ娘への陵辱シーンだと思うボクだけども、じゃあ好きな台詞は?ときかれれば、まずは「ファッションは完成することがない」をあげたい。まだ見ぬ境地へと挑戦する姿はボクにはあまりにまぶしく見える。いや、松本人志が映画監督としてそこまでの挑戦を行なっているのかはわからないけれど、とにかく、監督3作目の本作は松本人志の現在の心境が相当にじみ出ている作品だと思いました。

大日本人』と『しんぼる』には「多くの人にまつりあげられている存在とはいえ実はこんなもん」という思想が共通しているかと思うんですが、ボクには2作は全然違う映画なんです。『大日本人』は「ヒーローなんてこんなもん」という思想に、どこかヒーローの孤独に寄り添った視線が感じられて、たとえばボクが大佐藤大だとしたら、そーゆー視線で自分を見てくれている人がひとりでもいると知ったならソレは嬉しいことだと思うんです。でも、『しんぼる』は違う。あの映画で描いたものが「神」なのか別の何かなのかはわからないけれど、すでにこの世界にあるモノとして崇められている人智を越えた「何か」というのは、誰かにとってソレが嘘やまがい物であったとしても必ず「救い」になっているハズなんです。だから、ボクには軽々しく「こんなもん」と否定することができない。

そんな風に割りと好意的に松っちゃんの映画を見ているボクには、『さや侍』はとてもいいものに見えた。映画にあった「愚直」とも言っていいほどまっすぐな感動に胸打たれてしまったのだ。劇中にあるさまざまなネタだけども、あれを見て「笑っている群集」というのが、すべて主人公である「さや侍」に一目置いている、または彼を買っている人物である、というのは注目すべきだろう。國村隼は笑っているが伊武雅刀は笑っていないのだ。この描写によって、前2作にある「所詮こんなもん」といったテーマが通底していると思うのだ。個人的には期せずして3部作になっている印象。

けれど、『さや侍』には決定的な矛盾があって、それは主役の抜擢について、なのです。確かに素人のおっさんの配役によってギャグが「スベる」ことが「出来ないことを努力している」という風に見えて、娘がその行動に感化されて協力し始める。しかし、結果的に彼には自分に「出来ること」でしか娘の思いに応えられなかった、というオチにつながるかと思うんですが、それにしても場持ちが悪すぎます。あまりに滑稽に映りすぎているので、今回も松っちゃんが主演したほうが?とも思ってしまう。でも、そうすると若君を笑わせることができそうだ、とも思えてしまうのです*1。一体どちらを配役すればいいのか?などといった疑問が浮かぶ時点で、この映画は破綻しているのだと思います。しかし、それでも、度重なる娘の「言葉」に「行動」で応える父の姿と、ありったけの言葉を歌に乗せて娘の幸せを願う姿にボクはほろりと涙してしまいました。もしかしたら、松っちゃんの映画づくりを道標に色んなひとの想いが巡り巡って、いつの日か「お笑い芸人」にしかつくれない「映画」が生まれるのかもれません。そんなことを思ってみたら、また泣いてしまうアホなボクなのでした・・・。だって、松っちゃんてば多分ごっつええひとですやん!

*1:あのネタの数々は物語上、笑わせてはいけない。