ヒーローコスチュームは超現実の夢を見る『スーパー!』

ジェームズ・ガン監督作品。昨年の『キック・アス』におけるヒットガールとは「優れた身体能力と親に仕込まれたアメコミを基にした殺人テクニック」というとてつもない怪物性を持った言わば「子ども版ブライド(as『キル・ビル』)」といった存在だったけれど、本作は、徹頭徹尾、凡人であるコトを貫いたヒーロー映画でありました。

このテのヒーローものを見るときに気にかけているのが「その世界に映画やコミックはあるのか?」ということ。たとえば、バットマンみたいなやつだ!という台詞があれば、その世界にはバットマンが自警団の象徴として存在していることになるし、まるでスパイダーマン/スーパーマンだ!という台詞があったなら、その世界には空を飛んだりするパワーが「無い」ということになる。

キック・アス』のオープニングは、どっかのキチガイがビル屋上からお手製マントで飛行にチャレンジ!落ちて死亡!という世界のルールを提示したものだった。そのため序盤において主人公はこれでもかとそのルールを思い知ることとなる。しかし、それはあくまで序盤の話で、のちにエンターテインメントに転ずるための免罪符としか思えない謎の「ウルヴァリン化」や、先述したヒットガールの活躍などを経て、評判なんて気にしない超絶的なカッコよさに上手く言いくるめられてしまった感がボクにとってあの映画にはあったのだ。ラストも楽しいことはもちろん楽しいけれど冒頭のルールを踏まえると、ヒットガールの登場を目の当たりにした主人公が、彼女による「力こそ正義」という形にあやかっただけで、いわゆる童貞男の成長だとは絶対に言えないと思うのだ。

本作『スーパー!』はそれを避ける。なぜそれほどまでにと思うほど登場人物たちを敵も味方も痛めつけるのだ。主人公の冴えない中年男フランクは、ジャンキーとはいえ愛する妻を寝取られ、絶望する。驚いたのは絶望したあとに頼るものが「アメコミ」だということ。そして、ズシンとくるのはエンドクレジット前の「SUPER」の文字だ。彼の出した答えとは「ボクが取った行動によって、生まれてきた命がある」というあまりに一面的な正義であった。つまり、正義の名の下に行なわれる自警活動の「限界=SUPER」こそは映画で描かれたものだと言っているのだ。もし、ボクが彼と同じ窮地に立たされたのなら、身動きとれずに佇むのみだと思うので、この答えには同意も否定もできなくて何とも言葉にしづらいものを感じた。そうして閉口していたら、映画のオープニングにあった子どもの描いた絵のような姿になって登場人物たちが歌って踊る楽しい映像を思い出して、たとえば、あのオープニングがこの作品のルールだとしたら、主人公の名前よろしく案外フランクな付き合い方もできるのかな、とも思ったりする『キック・アス』後に生まれるべくして生まれた傑作でありました。