ノーカントリー・フォー・ムハンマド・メン『エッセンシャル・キリング』

イエジー・スコリモフスキ監督作。イスラム兵・ムハンマド(asヴィンセント・ギャロ)が、アメリカ軍の追っ手から必死に逃げるだけという単純なストーリー。一切のセリフが排除された彼にリアリティがあるかといえばそうでもなく、映画からはサスペンス/ドラマ/エンターテインメントといった、およそ映画を彩るための要素がなかったように思う。描かれるのは生存本能にかられる人間の姿のみで、スクリーンにはその本能だけを残すための「必要な殺し=エッセンシャルキリング」が漠然と映し出される。

本作を見てまず思い出したのが、コーエン兄弟監督作品『ノーカントリー』('08)において語られる「夢」の話。うろ覚えだし、そもそも上手く解釈できているのかさえわからないけれど、『ノーカントリー』本編で描かれたシガーらの追走劇からは、こんなにも凄惨な出来事が今では日常茶飯事なのだ、との絶望を覚える。そして、語られる「夢」の話とは、人生を雪道になぞらえた詩の引用で、人間である限りはその絶望をも乗り越えなければならない、というものだったように思う。

本作は生きながらえるうちにどんどんと人間性を失っていく一人の男を映し出した作品だ。もっといえば自然のなかに溶け込ませたようなカンジか。アメリカ兵に捕らえられた彼は偶然の事故から九死に一生を得るも、その手でさらに人を殺めてしまう。また、行く先々で服を着替えていくサマはまるで動物の毛皮を身にまとうようで、最初からわからない彼の人間性が次第に本当に見えなくなっていく。木の実や樹液などにしゃぶりつく姿はもはや生存本能のみに生きる雑食動物だ。そうしてよりソリッドな生き物に成り変っていく彼だったが、故郷の家族を思う回想シーンが一抹の人間性を残す。

雪道のように厳しい人生を生き続けなければならないのが人間ではあるけれど、その道があまりにも赤く染まってしまった「今」では、ムハンマドが最後に身にまとったキリストの慈悲(asエマニュエル・セリエ)などから、生きながらえることよりも「死」を選ぶことで獲得できる人間性もあるのではないか?つまり、この映画における神であったハズの監督による「神を唯一の信仰とすることは、ときに人間性を獰猛に失っていくことにもなりうる」という、アッラーよろしくムハンマドを通じて描いたメッセージだったように思う。うむ。大した知識もなく恥ずかしいエントリだわね。おわる。