ソフィア・コッポラの胡蝶の夢『SOMEWHERE』

ソフィア・コッポラ監督作品。監督4作目である本作は『ロスト・イン・トランスレーション』につづいて2本目のオリジナル脚本作品。ハリウッドスターの俳優とその娘の物語というまたしても半自伝的な内容ではありましたが、「映画に見えない映画をつくりたい」という、映画づくりへの暗中模索が感じられる発言や、オリジナル脚本となると「自分にしか語れない/自分が語れる物語」である「映画人の物語」になるという監督独特の表現にとても好感を持てました。

オープニングシーン、フェラーリがぐーるぐると道を走る様子が延々と映されます。のっけから何を思わせたいのかサッパリわからなくて眠たいわけですが、一応ラストシーンと繋がることは繋がります。ただ、同じ道を意味もなく走っていた彼が仮初めの乗り物を捨て自分の足で歩みだす、という映画が提示したとおりの読み取り方ではやや物足りない気がするので、あれこれ考えていきます。

劇中にセレブの嗜み的エピソードとして出張ポールダンスの場面があるんですが、そのダンサーがなぜか双子なんですね。双子のかわい子ちゃん。彼女たちのポールダンスが例によって延々と映されるわけですが、まぁ1回目はいいんです。ふむふむセレブの嗜みねって思えるから。でも、このポールダンスってばどうしたことか2回やるんですよね。えええ!?さすがに2回はキツイよ・・・とか思っていたら、どうも1回目とは違っています。1回目のポールダンスでは、主人公ジョニー(asスティーブン・ドーフ)は、泥酔から眠りこけてしまって、それを見たかわい子ちゃんたちはダンスを途中でやめて帰ってしまうんですが、2回目はしっかりとえっちなポールダンスをやり終えて、「おお〜よかったよ〜チューしてくれ〜」とデレデレしながら双子のかわい子ちゃんの名前を言い間違えて「バカ、あたしは違うほうよ!」とひっぱたかれ、もう一方のかわい子ちゃんに「それはあ・た・し、チュッ」とされるところまでが一場面となります。つまり、1回目で見せきれなかったことを2回目でやるわけですね。

たとえば、特殊メイクの顔の型取りをしたあとのジョニーがお爺ちゃんの姿だったことから、彼に父フランシス・フォード・コッポラの投影がされているとして、また、娘クレオ(asエル・ファニング)が、姉にスター女優ダコタ・ファニングを持っていることからソフィア・コッポラ自身が「あの頃のわたし」という人物像をクレオに投影しているとすれば、本作『SOMEWHERE』には、ソフィア・コッポラの「あの頃パパがこうしていれば」という、もう叶うことはないけれど拭い去ることもできない思いと、双子=エル・ファニングの抜擢=「どこかにいる」であろう自分と同じような境遇にある者への思い、そんなことを綴ったんじゃないかと感じる白昼夢のような映画でとても面白かったです。すんごく眠たいけど。おわり。