武士に勝って、勝負に負ける『一命』

三池崇史監督作品。素晴らしかったです。『十三人の刺客』(10)のように大立ち回りを派手に演出するチャンバラ劇ではないけれど、好きな話にイイ顔が揃っていて大満足でありました。一言、佇まいが立・派っ!

先にも書いたとおりにぎやかなチャンバラ劇ではなかったですが、描かれる物語への思いは『十三人の刺客』と何ら変わり無く、それゆえにとても現代的であり、カタルシスでいえば同等以上のものだったと思います。英題は『Hara-Kiri: Death of a Samurai』で、オリジナル作品『切腹』(62)*1の単純な英語訳ではありますが、『十三人の刺客』と共通する言葉として「侍の死」というのがあって、この映画は武士道精神という文化そのものの「無常」を見つめているんですね。

腹を切るとウソをついて温情から銭をせしめる「狂言切腹」なるものが流行している時点で、映画の舞台は、武士道の何たるかという価値観が大いに揺らいでいる世界です。劇中でそれを行なう人物はいちおう武士ではあるけれど、子どもの頃から武道より学問のほうが好きで、大人になってからは寺子屋で先生をやっているひとで、これはきっと「次世代の担い手がいない」ということであって、あと、たぶん江戸時代だから「あだ討ち」とされる復讐を行なってしまった者を「斬り捨て」と断ずるのは、武士道とかはカンケイなくて単なるお家仕事だということから、「真剣には真剣で勝負せよ」という武士道に反する竹光勝負を挑む映画のクライマックスである大立ち回りは、どちらが勝つにしても武士道としての物語なんてものは何も「無い」んですよね。

問いを突きつけられるお家の頭は「武士に二言があってはならん」と言いつつも、竹光での腹切に苦しむ男へ介錯を施す人情の持ち主で、このふたつは矛盾する感情です。一度でも切腹すると言ったなら、たとえ、持っていた刀が竹光だとしてもソレを行えということが「二言があってはならん」ということなので、その腹切の最中に介錯を施すこととは、自分で自分の行いを中断する二言/矛盾であり、そして、このときに見せる表情こそが武士道への「揺らぎ」なんですね。言葉には「二度あることは三度ある」「三度目の正直」という風にいろんなものがあって、その価値観の共有は個人レベルでされるものだと思います。映画『一命』は、そんな価値観の揺らぎをひとりの武士が命を賭して問うことでその無常を暴いてみせる「弱きが強きをくじく物語」という正しく現代的な命の宿った時代劇でありました。傑作!

*1:未見です。原作も。