想いをしたためたドラゴンタトゥー『ドラゴン・タトゥーの女』


昨年につづいてデヴィッド・フィンチャー作品を二日連続で見てきました。熱をあげて大傑作!と言うほどの興奮は無いんですけれど、どこか魅力を感じずにいられないというかいつまでも見ていられるというか。一体自分がこの映画をどう好きなのか?っていうのを言葉にできたらスッキリするんでしょうけど、まぁ、二回見てもあんまり掴めませんでした(笑)。以下、そんなカンジの人の印象まとめ。

まず、とりわけ印象的なオープニング。黒い液体や人型のイメージが殴られたり溶け合ったりしているPV風のモノですが、監督いわく「リスベットの悪夢」だそうな。黒と灰色のなかに一瞬だけ表れる「火」のイメージが、リスベット(asルーニー・マーラ)にあるであろう父親との確執を思わせますが、終盤にて明かされる別の人物の「悪夢」にも似ているんですよね。つきまとって離れない悪夢はその人物の人生を大きく変えてしまいました。リスベットも同様で、彼女には人間関係/特に男性との関係を築く能力が極端に欠けていて、それというのがセックスかスタンガン、セックスかスタンガンしか無いんですよね。ただ、物語の進行はミカエル(asダニエル・クレイグ)が主で、タイトルに冠されているほどの存在であるリスベットとの遭遇に驚くことに約半分の時間をかけているんですよね。映画はそれまでに皮を剥ぐようにゆっくりと魅力を匂わせて、そのどれにも当てはめずに二人の遭遇に辿り着きます。『ゾディアック』(2007)のような事件に取り憑かれた者の物語だとか、『セブン』(1995)よろしく神の啓示を受けた者の犯行だとか、『ソーシャル・ネットワーク』(2010)におけるマーク・ザッカーバーグのような人間性の欠如だとか、皮を剥ぐと同時にさまざまなフィンチャー印を刻んでいって、その先に『ドラゴン・タトゥーの女』という映画の姿を見せるんですね。

はじめてミカエルと顔を合わせたときのリスベットの戸惑い。全身ピアスの風貌も何のことはないと接してくれるリスベットにとっておそらく初めての「遭遇」で、その裏には、決して多くは語られないオープニングの「悪夢」があり、また、それゆえのはやる気持ちを落ち着かせるかのように煙草を吸い続けるリスベットの姿は初心そのものです。ラブストーリーという言葉を使いたくもなりますが、リスベットはミカエルのことを“友達”と呼んでいました。恋心なのかどうかの判断がつかずに何か特別な感情を抱いてしまったんですね。そんな中でのやり取りで特にグッときたのは、ミカエルの預金口座をハッキングで把握していることについてリスベットの言う「知っててごめん」というセリフ。この言葉から、彼女には自分の能力が決して“是”ではないという自覚があるとわかり、そして、最後に思うがままに“是”として取った行動の結果からは、相手にとって自分はあくまで「助手」という存在でしかなかったとわかる・・・こ、これが凄まじかったですねぇ。よく、原作のキャラクターの映像化について、魅力的な言葉で彩られた人物のカタチを映像化することで限定的にしてしまうことの心許なさ、というのがありますが、映像化されたキャラクターの場合、「多くを語らずに想いを秘めさせたほうが観る者に響き、キャラクターが象徴化される」ということが言えるのかもしれません。原作と映画で相互補完ができる素敵なカタチですね。ヒドい責め苦を味わったときに彫ったタトゥー。とりわけドラゴンのタトゥーにはどんな想いがあるのか。彼女の出自を描くことは必ずしも得策とは言えないし、匂わせる程度とはいえちゃっかり描写をしている辺りにはフィンチャー監督のキラーパスが感じられますが、『エイリアン3』(1992)のごとく巡り巡って野心溢れる若手監督に続編製作をお願いしたいです。フィンチャー監督が一番だけど。はい。最後に「知っててごめん」というリスベットに想いをよせながら一言。「知らなくてごめんね」。おわり。