マイシャーリーズ、マイセロン『ヤング≒アダルト』


まだ34歳のジェイソン・ライトマン監督の新作。とってもよかった。ボクは映画に興味を持ち始めてまだ片手の数の年くらいしか経っていないので、新規ファンとして、どちらかといえば過去(自分が生まれる前)の作品よりは、新作のほうに愛情を注いでいきたいな/それもできれば劇場鑑賞できた作品を(シネコンだけどね)、ということを思っているんだけども、まだ若いライトマン監督の映画をこれから何本も見れるんだろうなぁと思うと、ものすごく嬉しいんだよねぇ。

「自分の居場所をさがしている人」という面があるこの映画だけど、その語り口は、『JUNO/ジュノ』(2007)のような自分色を探すための猥雑なカラフルさではなく、まるで武器のように服/化粧を装備し、取り繕うようにウィッグやペディキュアをつけて自分を「着飾る」イメージで、映画の視点は主人公メイビス(asシャーリーズ・セロン)からブレることがない。また、ライトマン監督はこの映画のオファーを一度は断ったそうで、それはたぶん『マイレージ、マイライフ』(2009)と酷似していることを嫌ったように思うんだけど、ジョージ・クルーニーのように自分らしさへの決意を固めるフォーマルさではなくて、今が気に入らないからあの頃を振り返ってみたらとんだブーメランをくらって再びきびすを返す、といった泥臭さ/ダメさ加減に満ちていて、そこにボクは等身大の逞しさを感じることができた。まぁ、ジョージ・クルーニーもかなりイイんだけど。

劇中で印象的だったのは、故郷に帰っても実家には立ち寄らずホテル暮らしをすることで、部屋に入った途端に自分の家のように散らかしていくさまがとても愉しい。これはつまり彼女はすでに「自分らしさ」を手に入れているということだと思うんだけど、どうもそれは彼女の青写真とは違っているらしい。でも、隣の芝生はそりゃあいつだって青く見えるものだし、自分が誇っていたことだって視点を変えてみれば何てことはないものだ。だからこそ、それらと対峙するには、後ろ指をさされながらも逞しく自分を「愛でる」ことから始めてみればいい、という普遍的で素敵な物語だったように思う。ただ、着飾っていたものを脱ぎ捨てたメイビスが、ひとときだけでも傷をなめ合うことを求めたマット(asパットン・オズワルト)や、その妹サンドラ(asコレット・ウォルフ)へのあしらいに象徴されるように、いわゆる「劇的」な変化を与えない手厳しさも持ち合わせている監督だと思うので、次の作品では『マイレージ、マイライフ』(2009)におけるアナ・ケンドリックのような「経験を白紙にした人のリスタート」という、また違った物語を手がけてほしいなぁ、と、勝手に楽しみにするのだった。おわり。