お前のモノは俺のモノ、俺のモノはお前のモノ『セッション』

『セッション』感想。

ものすごい緊張感とエネルギーに満ちた映画でした。体温上がったー。エピローグなくバシッと終わってくれるの格好良かったです。六本木まで羽根を伸ばして見てきたんですが、まさかの今週末から地元宇都宮でも上映開始!し、知らなかった…。別に映画の料金は変わんないし(六本木のTOHOシネマズは座り心地がGoodでした)楽しんだからいいのだけど、なんかバカみたいでちょっぴり悔しいですね。以下、面白かったところを羅列。


▼ニーマンについて

行動と言動が面白かったです!特に見応えあったのはニコル(めちゃくちゃ良いコ!)絡みの場面。好きなドラムで世間様に認めてもらうため音楽院へ入学したはいいものの、「入学」以外には何も起きない日々を過ごしていたニーマンはニコルのことを「見ているだけ」でしたが、鬼教師フレッチャーに一声かけられただけで強くなったつもりになって「よし!この調子であのコにも声かけてみよう!」となったわけです。ニーマンの行動原理のほとんどはこう“調子づいていく”感じで描かれていて見ていて本当に面白いです。

勝手に好きになり勝手に別れを告げるクソ野郎っぷりを発揮するニーマン。彼はきっと「オレは褒められて伸びるタイプ。オレのことを貶す奴は何もわかってないんだ!」と思ってます。他人のことを「モノ」程度にしか思っていないので「彼女」はステータス。「ライバル」は邪魔なだけ。男手ひとつで育ててくれた父親はといば、何でも受け入れてくれるのでレーズン入れるくらいは何の気なしに承諾。別に自分は食べないから「関係ない」という感じ。「人」を「モノ」以下に思ってるので「物体」なんぞには無関心の極み。親のように必要なときにそばにあって当然と思っているから「管理」できない。ニーマンはそんな疾患を持った人物だと思いました。医者ではありませんが。



フレッチャーについて

「おや上着を忘れてしまったようだ」と登場してから、スパルタ指導で映画を牽引していく鬼教師。「絶対的に主導権はこちらにあるのだ!」と主張する場面ばかりで、音階のズレを指摘する場面では、別の人物に言い寄ることで相手の心理を破壊し、バンドとして遅かれ早かれ逃げるであろう“使えない者”を見つけ出しました。音階がズレようがズレまいが問題ではない。わたしが音階だ!というわけです。

目を見張ったのはニーマンを6時に呼び出した場面。あれ、フレッチャーも6時に来てないですよね。ニーマンが来ないから去ったわけではなくて、呼び出すだけ呼び出して彼は来てないんです。わたしは呼び出した“だけ”で他に何も言ってない!というわけです。もう、笑っちゃうくらいの支配好きですね。フレッチャーはつまり「指揮」をすることで「人間を楽器」として演奏しているわけです。ニーマンとフレッチャーは手法こそ違いますが「自己実現」を主とする人間としてはよく似ていると思います。上着忘れてたし。



▼二人について

そんな二人が主導権の奪い合い、意地の張り合いを展開していき、いわば共依存関係になっていきます。ドラムだけは誰にも負けたくないニーマンにはフレッチャーの指導が必要でした。ニーマンは自分の幼少期の動画で泣くくらい自分大好き人間なので、フレッチャーに叩き潰されるたびに自己治癒意識が働いて、それが原動力になってドラムの腕がどんどん上がっていくんですね。フレッチャーもまた自分の指導を必要としてくれるニーマンのようなイカれた生徒が必要でした。指導をやめられない止まらない。



▼ラストについて

ニーマンから見れば、ドラム演奏をやめないことでフレッチャーを支配したことになりますが、フレッチャーから見れば指導をふたたび行うことができたわけです。利害関係の一致です。けれど、ラストの描写でもっともおそろしかったのはニーマンと父親の抱擁です。レーズンのことにまったく気が付けない父。家族の食卓では息子の狂気を見て見ぬフリをしてしまう父。大舞台で恥をかかされた息子をこれはいかんぞと抱き締めますがあれは「別れ」です。フレッチャーという自分に適した指導者を得たニーマンには、もう父親は必要なくなったんですね。最期の抱擁をして踵を返し、舞台へと戻っていくニーマンの背中に「親を捨てる息子」を見ました。ニーマンとフレッチャーは、これからきっとボロボロになるまで憎み合って、お互いが必要なくなる日まで潰し合うのだと思います。そのつづきを、映画を見る観客と同じように息子の「観客」でしかいられない父親にこそ、この物語の悲劇性があるのではと感じました。フレッチャーがしきりに親ネタで罵倒したり、彼に家庭の「か」の字も感じられないのがそういう味付けかなと。ハイ。というわけで、最高に楽しんだ1本となりました。弱冠28歳の監督次回作も楽しみ!